日曜朝の礼拝「幼子のような者に」

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幼子のような者に

日付
説教
吉田謙 牧師
20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。21 そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』
ルカによる福音書 10章20-21節

「悪霊があなたがたに服従する」ということを弟子たちは体験しました。それは彼らが、この地上の人生において、イエス様を信じて従い、イエス様の先駆けとして派遣されて、神の国の福音を宣べ伝えていく中で体験したことでした。信仰者の人生には、確かにそのような素晴らしい体験、大いなる喜びが与えられます。私たちはこの約束を信じてよいのです。けれども、イエス様はここで、「本当に喜ぶべきことは、そういうことではない!」と言っておられます。「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と。信仰をもって生きる時に、私たちは地上の人生においても、時には悪霊をも服従させるような素晴らしい体験をすることが出来ます。けれども、たとえそういう体験が出来なかったとしても、私たちに与えられる本当の喜びは、それによって左右されることはないのです。本当の喜びとは、私たちの名が天に書き記されていることです。名が天に書き記されている、これをもっと単純に言うならば、神様が私たちに救いを約束しておられる、ということです。神様の手元にある命の書のリストに私たちの名が既に書き記されているのです。そして、一端その名が天に書き記されたならば、もはやそれは消し去られることがありません。地上の人生において、どのようなことがあっても、人生の戦いに破れ、望んでいた成果をあげることができなくても、あるいは誘惑に負けて罪を犯し、サタンに「この人はこんな罪を犯した!」と神様の前で訴えられるようなことがあっても、神様は、「いや、この人の名は命の書のリストに書き記されている。この人は私の民、私の救いにあずかる者なのだ!」と宣言して下さるのです。私たちは、イエス様の十字架と復活と昇天によって、神様が私たちの罪を赦し、私たちの名を天に書き記して下さったことを信じています。これが私たちの信仰です、そして、これこそ信仰者に与えられる本当の喜びでありましょう。この喜びを味わい知る時に、地上の人生において何があったとしても、「あなたがたに害を加えるものは何一つない!」という約束が真実であることを知ることができるのです。

 また21節以下には、イエス様が聖霊によって喜びにあふれ、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」と父である神様を賛美した言葉が記されています。21節の冒頭には「そのとき」と言われているように、この賛美の言葉は、20節までの箇所と密接に結びついています。つまり、あなたがたの名が天に書き記されている、という大きな喜びを告げて下さったイエス様が、聖霊に満たされて、私たちの喜びをご自分の喜びとして喜び、神様をほめたたえて下さったのです。

 イエス様がここで賛美しておられるのは、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」ということです。

 当時、「幼子」は、役に立たない邪魔者の代表格でした。今日の箇所でも、この「幼子」という言葉は、信じた者たちの水準の低さを言い表しています。イエス様の恵みの奇跡の数々を経験しても、悔い改めることがなかった町の人々は、誇り高い人々でした。宗教の専門家や裕福な人々や権力者たちです。けれども、イエス様を受け入れ、従ってきた弟子たちは、決して学のある人々ではありませんでした。ペトロもアンデレも、ヤコブもヨハネもガリラヤ湖の漁師でした。教養のある人々でも、金持ちでも、権力者でもありません。つまり、神の国の福音は、誇り高い有力者には示されないで、幼子のような無学で無力な者たちに示されたのです。 救われているというのは、自分の弱さや自分の無力さや自分の罪深さに気づいている、ということです。それは客観的に、人から見て罪深いとか、無力だということが問題なのではありません。そうではなくて、問題の中心は、自分自身が自分の罪深さや無力さに気づいているかどうかです。たとえ人から極悪人と見られている人であっても、本人が自分に何の問題も感じていなければ、神様を求めることは出来ません。そういう人は神様の力を必要としないのです。いくら美味しい料理があっても、満腹ならば食べる気にはなりませんし、たとえ食べたとしても、本当の美味しさを味わい知ることは出来ないでしょう。神様の存在もそれと同じです。「私には神様、あなたの力がどうしても必要です!」と、心底自分の力に絶望し、飢え乾いた思いで神様を慕い求めるのでなければ、本当の神様の力や愛を味わい知ることは出来ないのです。つまり、幼子というのは、自分の弱さや罪深さに気づき、自分の力ではどうにもならない、という現実の中で途方に暮れている人です。神様の力を心から慕い求めている人であります。先週の御言葉で言うならば、狼の群れの中に送り込まれた小羊のような自分であることを知っている人でありましょう。そのような者にこそ神様は、「あなたがたの名が天に書き記されている」という恵みを示して下さったのでした。

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