日曜朝の礼拝「十字架のイエス・キリスト」

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十字架のイエス・キリスト

日付
説教
吉田謙 牧師
40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
ルカによる福音書 23章32節-43節

 イエス様は、ユダヤ教の指導者たちの陰謀によって捕らえられ、裁判にかけられ、とうとう十字架刑に処せられました。その時に、イエス様と一緒に、二人の犯罪人が、一人はイエス様の右に、またもう一人は左に、十字架に磔(はりつけ)にされたのです。その内の一人の犯罪人は、イエス様に助けを求めつつも、そのせっぱ詰まった思いを怒りでしか表現できませんでした。自分の犯した罪を素直に認め、悔い改めることが出来なかったのです。しかし、もう一人の犯罪人はやがて自分の罪を認め、自分が人生の終わりを十字架の上で過ごさなければならないことを、当然の報いとして受け止めることが出来たのです。またこの男は、『お前は神をも恐れないのか』と、もう一人の犯罪人を叱りつけました。この時、彼はイエス様のことをまことの救い主、メシアと信じることが出来たのだと思います。「主イエスよ、あなたこそ、まことの救い主。あなただけが私の望みです。それもただ、あなたが私のことを思いだして下さるかどうか、この一点にかかっています。私には、『私のことを思い出して下さい』と要求する権利すらありません。私のような者は、あなたの御国からも廃除されるのが当然の報いなのでしょう。しかし今、人々から退けられ、絶望的な死を遂げなければならない私にとって、なお望みがあるとすれば、それはあなたの憐れみに寄り縋るしか、術がありません。そこで私は、あなたの憐れみにのみ寄り縋り、ただひたすら願います。あなたが栄光の御国の座に着かれた時に、どうか私のことを思い出して下さい。主よ、憐れんで下さい。どうか私のことを覚えていて下さい。」

 この男は、そこにいたほとんど全ての者がイエス様の十字架に躓く中で、自らの罪を悔い、驚くべき信仰告白をしたのでした。 

 その時、信じられないことが起こりました。イエス様は、この男に対して、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束して下さったのです。ここで「楽園」と訳されている言葉は、パラダイスという言葉です。当時、このパラダイスという言葉は、これから自分たちに与えられるところ、救いにあずかるところ、死んだ後に行く天国という意味として受けとめられていたようです。しかし、このパラダイスには誰もが入れるわけではありません。神様の御心に従い、正しい生活をした者だけが、このパラダイスに迎え入れられる。これが当時、広まっていたパラダイスの概念でした。おそらく、この男も、このパラダイスの概念をよく知っていたことでしょう。そして、この男にとっては、やはりこのパラダイスは自分が入れるようなところではなかったのです。それだけに彼は、このイエス様のお言葉を聞いて本当に驚いたと思います。

 「はっきり言っておく、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」「楽園はあなたにとって、決して遠くて手の届かないところではない。あなたも楽園に入れる。パラダイスに入れる。天国に入れる。しかもそれは、私が、やがて力をもって、もう一度この世にやってくる時に入れる、というのではなくて、今日、この日に、わたしと一緒に楽園にいる」と言うのです。これは、彼にとって本当に驚くべき恵みの知らせだったと思います。

 この犯罪人の救いの物語は、私たちにとって本当に大きな慰めだと思います。この犯罪人は、失敗の人生の果てに、素晴らしい愛に満ちたお方に出会うことが出来ました。人間同士ならば、あまりにも遅すぎる出会いです。けれども、救い主イエス・キリストとの出会いに、遅すぎることはありません。たとえ死の直前であっても、イエス様と出会う者は、その後に、永遠に主と共に生きることが出来るのです。この犯罪人は、最後まで何一つ信心深い行いは出来ませんでした。本当に空しい人生を送ってしまったのです。けれども、人生の終わりにイエス様に出会うことで、この人はその人生を喜びの内に閉じることが出来たのでした。このことからイエス様による救いは、私たちがどれだけ努力し、善い行いを積み重ねてきたか、ということには全くよらないことがよく分かります。またその救いにあずかるのに、「もう遅い」ということもありません。それは時間的な意味において、つまり人生の最後の時、死の床においてもあずかることができる、ということであると同時に、私たちの罪の深さにおいてもそうなのだ、ということです。こんな罪を犯してしまったなら、イエス様の救いにあずかることなどできない、もう手遅れなのだ、ということもないのです。たとえどんな悪人であっても、その人が本当に心から悔い改める時に、神様はいつでも自由に受け入れることの出来るお方です。そういう意味で今日の物語は、イエス様が十字架の死によって成し遂げて下さった救いを、最も印象的に、しかもはっきりと描き出した物語ではないかと思います。私たちは、友人や家族の救いについても、この十字架の物語が描き出した同じ希望に立ちたいと思います。神様は、立ち返る者を、息を引き取るその瞬間まで、救うことの出来るお方なのです。

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