日曜朝の礼拝「最後の晩餐」

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最後の晩餐

日付
説教
吉田謙 牧師
19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。
ルカによる福音書 22章14-23節

イエス様は、この聖餐式において、「体」と「血」を差し出して下さいました。ではイエス様は、この「体」と「血」によって、いったい何を指し示そうとされたのでしょうか。これは、決してイエス様のお体を、二つに分けていただくということではありません。「体」というのは、血も肉も含めた人間全体のことを言い表しています。ですから、イエス様が「これは私の体である」とパンを差し出すというのは、「後で血も用意しているので、最初は肉だけをどうぞ」というのではないのです。そうではなくて、これは「私の全てを差し出す」という意味です。私たちは、パンを受け取る時に、あの十字架の壮絶な苦しみを通して示された、イエス様の十字架の愛の全部を受け取るのです。

 では、どうしてイエス様はパンだけではなくて、ぶどう酒も差し出されたのでしょうか。イエス様は、こう言ってぶどう酒を差し出されました。20節後半。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」

 私たちは、このぶどう酒を、「血による契約」としていただくのです。これは、私たちが、十字架の意味をそういう仕方で受け取る、ということでしょう。パンによって、既に十字架の恵みは全部、差し出されています。けれども、今度はそれをもう一度、契約という仕方で受け取り直すのです。血による契約というのは、この約束を破ったならば、赦されなくてもかまわない、自分の血を流してもかまわない、そういう決心を表明しているものでしょう。昔、モーセの時代に、シナイ山で神様とイスラエルの民が結んだ契約は、将にそういう契約でした。この聖餐式においてもイエス様は「このぶどう酒は血による新しい契約である。これにあなた方もあずかるように」と促されました。つまり、この十字架の血によって、私たちは神様と永遠に変わることのない愛を誓い合うのです。けれども、よくよく考えてみると、私たちは洗礼式の時にも、既にこれと同じ誓約をしています。その時に私たちは「神様に従います」と約束し、神様の方も「あなたを永遠に愛する」と約束して下さいました。では、聖餐式の時に、それをもう一度繰り返すというのは、いったいどういうことでしょうか。それは、聖餐式にあずかるたびに、私たちは、その約束を更新する、ということです。

 また、この契約は、あのモーセの時の契約をそのまま引き継いだものではありません。これは以前の契約内容を大幅に改訂した新しい契約なのです。あのモーセの時のシナイ契約は、十戒の板に刻まれた律法が人々に与えられ、その律法を守ることが求められました。この新しい契約においても、私たちは主に従うことを真剣に約束し、主との深い絆に入れられるのです。ただし、この新しい契約においては、私たちが約束を破った時に、私たちが血を流すのではなくて、キリストが身代わりとなって血を流して下さるのです。

 もし、私たちが洗礼を受けた時に、あのモーセの時と同じような約束をしていたならば、きっと私たちは、今頃、みんな契約違反によって罰せられ、血を流していたことでしょう。けれども、嬉しいことに、イエス様は、それとは全く別の新しい契約を立てて下さいました。イエス様ご自身が、私たちの罪を全部背負って死んで下さるという新しい契約、恵みの契約であります。契約に違反した時に流されるはずの血が、もう既に流されているのです。キリストが私たちの身代わりとなって、十字架の上で血を流して下さった、本来、私たちが受けなければならなかった神様の怒りと呪いを、キリストが私たちの身代わりとなって、十字架の上で一身に引き受けて下さったのであります。

 こんな柔な契約では甘えが生じるのではないか、そのように思われる方も中にはいらっしゃるかもしれません。勿論、甘えは禁物です。その甘えと私たちは常に闘い続けねばなりません。けれども、その甘えを払拭するためにも、この聖餐式はあるのではないかと私は思います。私たちは、この聖餐式にあずかる度に、あのイエス・キリストの十字架の恵みを思い起こすのです。他でもない、この私を救うために、あんなにも壮絶な苦しみをイエス・キリストは担って下さった。もうボロボロになって、血まみれになって、それでも最後の最後まで私たちへの愛を失うことがなかった。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」こう祈りながら、十字架の上で息を引き取られたのであります。しかも、この十字架は、キリストの優しさにすぐに甘えてしまう本当に不甲斐ない私たちを救うためのものでした。何と畏れ多いことでしょうか。この壮絶なイエス・キリストの十字架を思い起こす時に、私たちは自然と身が引き締まると思います。「甘えてはいけない!」と促されるはずであります。

 イエス様は、ぶどう酒の杯を差し出しながら、「私はそういう新しい契約をたてるから、あなた方はこれを飲むように」「この契約に入るように」と弟子たちを励まされました。約束を破ったならば、自分の血を流してもかまわない、こういう約束を私たちは神様と結ぶのではありません。私たちは、私の約束違反の償いに血を流して下さった、あのイエス様を仲介に立てながら、神様に向かって、変わらない愛を誓うのです。「神様、私はあなたを愛し、あなたに従います!」私たちは真心からそういう約束をするのです。けれども、同時に「この約束が守れない時には、私の罪を背負って下さったイエス様の十字架の血潮に頼ります。どうか十字架の血潮によって、罪深い私をお赦し下さい!」こういう思いで、私たちは、聖餐式にあずかる度に神様と約束するのです。

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