この人を見よ
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- 説教
- 吉田謙 牧師
5 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。
ヨハネによる福音書 18章39節-19章16節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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今日の物語を理解する上で鍵になるのは、やはり5節の御言葉でありましょう。「見よ。この男だ!」とピラトはイエス様のことを指し示しました。これは、直訳すると「見よ。この人だ」「この人を見よ」という言葉です。この言葉は、ラテン語で「エッケ ホモ」という言葉で、教会はこの言葉を、無くてはならない大切な言葉として、今日まで大切に語り継いできました。そして、この「エッケ ホモ」という言葉は、今日の御言葉から取られた言葉なのです。「この人を見よ!」これは、もともとはピラトがユダヤ人たちへ呼びかけた言葉です。「こんな惨めな姿をさらけ出した人間が、王様であるはずがないではないか。よーくこの人を見てみよ!」このように、この言葉は語られたのです。つまり、もともとこの言葉は、イエス様を蔑む言葉でした。けれども、初代教会のクリスチャンたちは、この痛ましいイエス様のお姿を指し示され、そこに預言者イザヤが語った「苦難の僕(しもべ)」の歌(イザヤ書52章13節-53章)を重ね合わせたのです。そして、やがてこの「エッケ ホモ」「この人を見よ」という言葉を、彼らは神様からの語りかけとして受けとめるようになっていったのでした。イザヤ書52章13節。「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見/一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。」
ここには「高く上げられる」僕(しもべ)の姿と、低く低くされ、人の面影もないような姿が同居しています。これこそ、この苦難の僕(しもべ)の歌が表現しようとしていることではないでしょうか。イザヤ書53章2節後半。「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。」
この言葉を読む時に、イエス・キリストの苦難のお姿が、そのまま、まるで十字架の足下に座って、それを描き取った人の言葉であるかのように語られていることに気づきます。しかし、この御言葉は、イエス様がこの地上においでになる数百年も前に既に記されていた預言の言葉でした。イエス様は将に、この苦難の僕(しもべ)として、この世においでになったのです。そして、今日の箇所の「この人を見よ」という言葉によって指し示されたのは、将にこのような痛ましい存在、私たちの背きや罪を一身に担わされ、打ちたたかれ、愚弄されて、輝かしい風格も好ましい容姿もない無惨な姿でした。兵士たちは、そんなイエス様のことを「ユダヤ人の王、万歳」と叫び、愚弄しました。しかし、この遊び半分に語った兵士たちの言葉こそ、実は神様が語らせて下さった真実の言葉であったことを、私たちはよく知っているのです。
ある時、私たちはイエス様を無視し、自分一人の力で生きているかのような高慢な生き方をしていました。またある時、私たちは、大きな苦しみや悲しみの渦の中で、ただ闇雲に藻掻き苦しみ、怒りにまかせてイエス様を罵倒していました。またある時、私たちは、イエス様にこんなにも愛していただいたのに、その愛を踏みにじり、イエス様を傷付け、イエス様の期待を裏切ってしまいました。そんな私たちの罪がイエス様を十字架につけたのです。そして、そのような罪に汚れた私たちの姿を見つめながら、主は「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と執り成し祈って下さいました。そして「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?!」(マタイ27:46)と大声で叫ばれながら、本来、私たちが受けなければならなかった神の怒りと呪いを全部引き受けて、あの十字架の上で死んで下さったのです。
今日の箇所で神様は、「この人を見よ!」と私たちに語りかけておられます。私たちは、この受難週の時に、特にこのイエス・キリストの十字架のお姿をしっかりと目に焼き付けておきたいと思います。
先程、賛美した讃美歌311番の2節には、こう歌われていました。「主の苦しみは、わがためなり、われこそ罪に死すべきなり。かかる我が身に代わりましし、主の憐れみは、いととうとし」、「私こそ死ぬべき罪人であった、あの十字架の上で本来死ぬべきはずの人間は、他でもないこの私であった!」と私たちは歌ったのです。この十字架のイエス様のお姿を心に刻む時に、まず私たちが示されるのは、この讃美歌が歌っているように、私こそあの十字架の上で死ぬべきはずの人間であった、という自らの罪の大きさでありましょう。けれども、ただそれだけではありません。それと同時に私たちは、それほどまでに大きな罪を犯した私たちを救うためにこそ、あのキリストの十字架があった、ということを味わい知るのです。
ある書物に宗教改革者ルターの興味深い手紙が紹介されていました。この手紙は、ある過ちを犯してひどく落ち込んでしまっているある牧師に宛てられた手紙です。そこには、こういう意味のことが書かれていました。「キリストは小さな罪しか赦すことが出来ないお方だろうか。あなたは絵に描いたような救い主を得ようとしている。キリストの救いを絵空事にしようとしている。それではいけない。あなたは呪われるべき罪人なのだ。自分の力で藻掻いてもそこから抜け出せるわけがない。キリストはそのような罪を贖うために来られたのではなかったか。もっと罪人であることに習熟していただきたい!」ルターはこういう意味の言葉を、その手紙に書き記していたのでした。私たちも、キリストを十字架につけた、どうしようもない呪われるべき罪人です。決して、このことから目を背けてはならないと思います。まずこのことを、しっかりと受け止めましょう。その上で、キリストだけが、このとんでもない大きな罪、重い、呪われるべき違反、罪業から救い出すことの出来る唯一のお方なのだ、ということを、しっかりと心に刻みつけたいと思います。