日曜朝の礼拝「信じる者になりなさい」

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信じる者になりなさい

日付
説教
吉田謙 牧師
27 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」ヨハネによる福音書 20章24節-29節

 トマスはつい先日まではイエス様と共に死のうとまで思っていた人物です。ヨハネによる福音書だけが、このトマスの言葉のいくつかを伝えています。例えば、11章16節のところに、イエス様がエルサレムに近いベタニアという町に再び向かおうとしておられた時の様子が記されています。この時に他の弟子たちは、「またあんな危険なところへ行くのですか」と引き止めようとしたのです。ところが、このトマスだけは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」とイエス様に同調したのでした。そんなトマスが、しばらくしてイエス様が捕らえられた時には、他の弟子たちと同様に、イエス様を見捨てて逃げてしまったのです。その結果、イエス様は裁かれ、鞭打たれ、ボロボロになって、ついには十字架に釘付けにされて、息を引き取られたのでした。取り返しのつかないことをしてしまった。トマスは、そんな自分をどれほど責めたことでしょう。しかし、自分をいくら責めたところで、過去の過ちを消し去ることはできません。トマスには、それが痛いほど分かっていました。もう罪を背負って生きるしかない。それがどんなに重かろうと、罪の負い目を一生背負って生きる他はない。そう覚悟していたのです。そういうトマスにとって、他の弟子たちの「主を見た」という言葉は、「あまりにもむしがよすぎる」と思えたのでしょう。本当は彼も信じたかったのです。しかし、そんな簡単に自分が赦されていいはずがないと思った。心がついていかなかったのです。だから、彼は頑なに信じることを拒んだのです。このように彼は、自分の罪をしっかりと見据えるために、最後までイエス様の十字架の傷跡にこだわろうとしたのでした。

 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」この言葉のゆえに、トマスは、よく「疑い深いトマス」と呼ばれることがあります。これは何も間違った判断ではありません。トマスは確かに疑い深かったのです。しかし、これをもっと厳密に言うならば、トマスは、あえて疑い深い人間であろうとした、と言うことでしょう。彼は自分なりに精一杯真実に生きようとしたのです。自分の過去をしっかりと見据えて生きようとした。彼は、十字架のイエス様の釘跡とわき腹の傷を忘れなかった人です。世の中には、忘れてしまえば自分の過去の罪も消え去ってしまうかのように思っている人がたくさんいます。そういう人たちと比べると、このトマスという人は、よっぽどまともな人間ではなかったか、と私は思います。

 けれども、イエス様は、このトマスがただ罪の負い目を負い続けて生きることを望まれませんでした。トマスにも現れて、「平和があるように」と語りかけて下さったのです。そして、続けて彼にこう言われました。27節。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」これは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない!」と言っていたトマスへの答えでした。イエス様は、信じられないトマスの言い分もちゃんと聞いておられたのです。私たちが信じられない時に、あるいは信仰が弱る時に、イエス様は私たちから決して遠のくのではありません。イエス様のお姿がぼやけてしまうのは、私たちの信仰の目がぼやけているからです。イエス様は、その時にも私たちの側にいて、私たちの心の叫びをちゃんと聞いておられます。イエス様は、トマスが言った通りに、十字架の傷跡をトマスに差し出して下さいました。「この傷跡に触れ、この傷跡に指を入れてみなさい」とイエス様は促して下さったのです。そして、さらにイエス様はトマスにこう言われました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。これは、あえて「信じない者」であり続けようとしたトマスへの語りかけでしょう。つまり、そのような彼に対してイエス様は、「もう、信じていいんだよ」と優しく語りかけて下さったのです。「『こんなむしのいい話があっていいものか?!私は決して信じない。いや信じてはいけない!』そう言って頑なに自分を責め続ける必要は無い。あなたの罪は私が全部十字架の上で担ったから、あなたは伝えられたことを素直に信じ、もう重荷をおろしなさい。信じない者ではなく、信じる者になるように!」とイエス様はトマスを招いて下さったのです。トマスは、その傷跡に手を差し込む必要はありませんでした。もうこのイエス様のお言葉だけで十分でした。こうしてイエス様は、彼の頑なな心に触れて下さったのです。そして彼は、それに応えるようにして、「私の主、私の神よ」とイエス様に対して信仰告白をしたのでした。

トマスがこう告白できたのは、ただ肉眼で復活のイエス様を見たからではありません。「平和があるように」とイエス様が語りかけて下さいました。また「あなたの指をここに当ててみなさい。わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい」と、まるで自分の言葉を傍らで聞いていたかのように語りかけて下さいました。そして何よりも、これら全てのことを用いて、イエス様がトマスの心に触れて下さったのです。だからトマスは信じることができたのでした。

 私たちが見ないで信じるのも、結局はこれと同じことでしょう。私たちは、確かに見ないで信じています。私たちは、この肉眼でイエス様を見たわけではありません。では、どうして信じているのでしょうか。復活のイエス様が、「私に触れてごらん」とトマスに言われたのと同じように、姿が見えなくても、イエス様は今も私たちに呼びかけて下さるからです。聖書の御言葉を通し、祈りを通して、イエス様は今も私たちに呼びかけて下さいます。「辛くて、悲しくて、空しくて、もうどうにもならなくて、藻掻いているあなたは、いったいどこにいるのか?!あなたは高価で貴い。私はあるがままのあなたを愛しているよ。どうか、そのことに早く気づいて欲しい!」「あなたがたに平和があるように!」「信じない者ではなく、信じる者になるように!」と。もう既に、ここにいる多くの方々は、この復活のイエス様の御声を聞いて、「私の主、私の神よ」と告白しているのではないでしょうか。

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