日曜朝の礼拝「平和があるように」

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平和があるように

日付
説教
吉田謙 牧師
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
ヨハネによる福音書 20章19節-23節

 先週学んだ最後の18節のところでは、復活のイエス・キリストに出会ったマグダラのマリアが、弟子たちのところに駆けだして行き、「私は主を見ました!」と喜んで報告したことが語られていました。ところが、今日の19節を見ると、それでも弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた、と言われています。つまり弟子たちは、イエス様が復活なさった喜びよりも、ユダヤ人たちへの恐れの方に心を奪われていた、ということでしょう。ですから彼らは、イエス様が私たちのもとに来て下さるようにと戸を開けて待っていたのではなくて、戸に鍵をかけてイエス様をも閉め出してしまったのです。弟子たちはこういう情けない仕方で、日曜日の夕方に集まっていたのでした。しかし嬉しいことに、今日の物語で復活のイエス様は、戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちの集まりに、ご自分の方から入って来て下さり、「平和があるように」と語りかけて下さったのです。

 この「平和があるように」という言葉は、ユダヤの言葉では「シャローム」という言葉です。本来、この「シャローム」という言葉は、神様の祝福が満ちあふれている状態を言い表す言葉でした。しかし、その言葉が次第に頻繁に使われるようになり、やがてこれが挨拶言葉になっていったのです。イエス様の時代には、「こんにちは」とか「さようなら」という通常の挨拶言葉として、この「シャローム」という言葉が用いられていました。けれども、今日の箇所でイエス様が、「平和があるように」と言われたのは、ただの挨拶言葉ではありません。人を恐れる弟子たちに、イエス様は「あなたがたに平和があるように」と、本来、この「シャローム」という言葉が持つ豊かな恵み、真実の平和を差し出して下さったのです。では、ここでいう平和とは、具体的にはどういう平和だったのでしょうか。ここでイエス様は「平和があるように」と言われながら、ご自分の手と脇腹をお見せになった、と言われています。手には十字架に釘付けにされた時の釘跡が残っていました。脇腹には、息を引き取った後で、死を確かめるために槍で脇腹を刺し貫かれたその傷跡が残っていたでしょう。イエス様はこの二つの傷を示されながら、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。どうやら、イエス様が弟子たちに与えられた平和は、この十字架の傷跡に深く関係しているようです。この十字架の傷は、通常ならば致命的な傷です。ここで言う「手」というのは、手の平ではありません。手の平ではすぐ裂けてしまいますから、ちょうどこの講壇の横のイエス様の手の釘跡の絵にあるように、十字架にかけられる死刑囚は、手首を釘で打ち抜かれたと伝えられています。動脈が釘で打ち抜かれる、これはどう考えてみても致命的な傷でしょう。脇腹の傷も、当然、致命傷です。こんな傷がついたなら、もう取り返しがつかない。イエス様はそういう傷を負っておられました。しかし、この時、イエス様は、「この通り、こういう傷を受けながらも私は生きている!」と、傷だらけのご自分のお姿を示して下さったのです。

 弟子たちは、ユダヤ人を恐れて閉じこもっていました。自分たちもイエス様のように捕らえられ、痛めつけられ、処刑されるかもしれない、体に受ける傷が怖かったのです。体に受ける傷や心に受ける傷、あるいは自分の経歴につく傷、人は色んな傷を恐れます。こんな傷を負ったなら、もう自分は駄目になってしまうのではないかという辛い思いを、私たちはしばしば経験するのです。それは、時には病気や怪我による肉体的な傷なのかもしれません。あるいは愛する者を失ったり、裏切られたりして、深く傷ついた心の傷なのかもしれません。あるいは大きな失敗をし、それによって出来る経歴の傷なのかもしれない。いずれにしても、それらは致命傷であり、私たちにとっては本当に大きな恐れなのです。けれどもイエス様は、そういう傷を受けながらも、神の力によるならば、この傷であっても生きることが出来る、この傷も致命傷ではないことを、ご自身のお姿を通して示されながら、「あなた方に平和があるように!」と言って下さったのです。このようにイエス様と繋がっているならば、私たちがどんな傷を負ったとしても、それはもう致命傷にはならないのです。

 また十字架にかけられたイエス様が「あなたがたに平和があるように!」と語られた時に、これは特別な意味を持つ言葉になりました。人の罪が最も露わにされたイエス・キリストの十字架。弟子たちも、決して例外ではありません。彼らはイエス様を裏切り、イエス様を見捨てて、見殺しにしてしまったのです。裁かれ、呪われたとしても何も文句が言えない弟子たちでした。けれども、その十字架の傷を持つお方が、彼らの前に現れて、「平和があるように!」と語りかけて下さったのです。つまり、これは「私はあなた方の裏切りを責めたりはしない。私とあなたがたとの関係はもうこじれていない。平和である。あなたがたの罪は赦された!」こういうことでしょう。この言葉を聞いたからこそ、弟子たちは、本当に心の底からイエス様の復活を喜ぶことが出来たのです。

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