日曜朝の礼拝「空の墓」

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空の墓

日付
説教
吉田謙 牧師
6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
ヨハネによる福音書 20章1節-10節

 今日の物語は、復活なさったイエス・キリストが、弟子たちの前に現れる以前の物語です。マグダラという町の出身のマリアがイエス様のお墓が空になっていることに気づき、弟子たちにそのことを告げました。その報告を聞いたペトロともう一人の弟子が墓に見に行くと、その報告通り、墓は空になっていました。それを見て、ペトロは不思議に思い、もう一人の弟子は、イエス・キリストが復活なさったことを信じた、と言われているのです。

 このヨハネによる福音書の復活物語は、トマスに語られたイエス様のお言葉で締めくくられています。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(20:29)。トマスは、この御言葉の直前に語られている物語の中で、復活のイエス・キリストに出会った弟子たちから「私たちは主を見た!」という証言を聞きました。その時にトマスは「そんなことは信じられない!」と言ったのです。しかしイエス様は、その後、この疑い惑うトマスにも現れて下さいました。そしてトマスは、ついに疑いの心を打ち砕かれて「私の主よ、私の神よ」と信仰を言い表すことが出来たのでした。ところが、その時にイエス様は、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われたのです。トマス以外の弟子たちは、既に「私たちは復活のイエス・キリストを見た!」と証言していました。「その証言によって信じて欲しかった。そのようにして信じる者が幸いなのだ!」と主は言われたのです。そういうわけで、ヨハネによる福音書の復活物語は、復活のイエス・キリストに出会う前に、空っぽになった墓だけを見て信じた一人の人の信仰で始まり、最後は「見ないのに信じる人は、幸いである」というイエス様のお言葉で締めくくられているのです。そして、その間に、実際に復活のイエス・キリストに出会った人々の心躍る物語が記されています。つまり、ヨハネはこの復活の物語を通して、私たちに次のようなことを伝えたかったのではないでしょうか。「空の墓を見ただけで信じたあの弟子のように、あなた方も復活のイエス・キリストを実際に見た人たちの証言を聞いて、見ないでも信じて欲しい。そうやって信じたあなた方が幸いなのだ!」と。

 空の墓を見て信じる、これは今の私たちにとっては、実際に復活のイエス・キリストに出会った人たちの直接証言を聞いて信じる、ということです。今の私たちには、この目で復活のイエス・キリストを確かめることは出来ません。しかし今は、見なくても、聖書に記されている復活の証言を聞くことによって、私たちは信じることが出来るのです。この復活の証言は、確かな証言です。パウロは、コリントの信徒への手紙一15章17節以下で、このように述べています。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」これは、「もしキリストの復活がなければどうしようか」と、不安に思いながら語った言葉ではありません。堂々とキリストの復活が事実でない場合の恐ろしい結果を語っているのです。何故、パウロはこのような恐ろしいことを堂々と語ることが出来たのでしょうか。それは、パウロがキリストの復活をただ信じていたのではなくて、知っていたからです。実際にパウロは復活のキリストと出会い、キリストの復活が事実でない可能性など万に一つもないことを知っていたので、このようなことが平気で言えたのです。

 この後私たちは、実際に復活のイエス・キリストに出会った人たちの心躍る物語を読み進めていきます。彼らも、この復活のイエス・キリストに実際に出会った人たちでした。だからこそ彼らは、このことを堂々と語り、死をも恐れずに福音を宣べ伝えることが出来たのです。私たちは、この証言を信じてよいのです。この直接証言を私たちが聞く時に、聖霊が私たちの心に働き、実際に見なくても、見た人と同じ幸いにあずかることが出来る。私たちは信仰の目で、復活のイエス・キリストと出会うことが出来るのです。

 今、復活の栄光の体をもったイエス・キリストは天におられ、私たちは、それをこの目で確かめることは出来ません。しかし今は、復活のイエス・キリストの代わりに別の弁護者、つまりキリストの霊、聖霊が地上に送られている時代です。今は、この聖霊においてイエス・キリストは私たちと共にいて下さるのです。ですから、今、私たちがイエス・キリストと出会うというのは、目で見て、手で触れることの出来る復活のイエス・キリストに出会うことではありません。私たちが信仰をもって聖書の御言葉に真剣に耳を傾け、祈る生活を始める時に、やがて聖霊が私たちの内側で豊かに働き始め、私たちは信仰の目をもって復活のイエス・キリストと出会うことが出来るのです。

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