日曜朝の礼拝「キリストの葬り」

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キリストの葬り

日付
説教
吉田謙 牧師
38 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。39 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。
ヨハネによる福音書 19章38節-42節

 今日の箇所には、十字架の上で死なれたイエス様の埋葬の物語が記されています。この頃のローマ帝国では、十字架の上で死んだ死刑囚は、見せしめのために、死んだ後も暫くそのまま、さらしものにされていました。ただし家族の者がどうしてもその遺体を引き取りたいと願い出た時には、しばしばその願いが受け入れられたようです。イエス様の場合、家族が願い出る前に、ユダヤ人たちが十字架から遺体を取り下ろすようにと願い出ました。何故、敵対していたユダヤ人たちが、わざわざイエス様の遺体を十字架から取り下ろすよう願い出たのでしょうか。それはイエス様が十字架に死なれた翌日が、過越の祭の日と安息日とが重なった特別な安息日だったからです。こういう特別な安息日に、汚らわしい死体が十字架の上に残っているのは、ユダヤ人たちにとって耐え難いことだったのでしょう。そういうわけでユダヤ人たちは、一刻も早く、その遺体を取り下ろすようにとローマの役人に願い出たのです。では、ユダヤ人たちは、取り下ろしたイエス様の遺体をどうするつもりだったのでしょうか。この頃のユダヤでは、通常、死刑囚の遺体は、死刑場の近辺に穴を掘り、投げ捨てられていたようです。おそらくユダヤ人たちは、イエス様の遺体も、そうやって投げ捨てるつもりだったのだと思います。ところが、今日の箇所では、思いがけないことが起こった、と報告されています。ユダヤ人たちの中から、突然二人の有力者が現れて、イエス様の遺体を引き取り、大変に豪華な葬りをした、と言うのです。

 この二人の内の一人は、アリマタヤ出身のヨセフという人でした。他の福音書を見ると、この人は金持ちで、身分の高い国会議員であった、と紹介されています。もう一人はニコデモです。この人は、これまでこのヨハネによる福音書に二回登場し、そこでは、この人も国会議員であったと紹介されていました。そしてこの二人は、いずれも今までユダヤ人たちを恐れ、自分たちがイエス様を慕い、救い主と信じていることをはっきりと言い表すことが出来なかったのです。

 イエス様はユダヤの指導者たちからは大変に嫌われていましたから、イエス様の弟子であることが皆に知れ渡ると、おそらく国会議員としての身分が危ぶまれたのでしょう。そういうこともあり、彼らは今ひとつ踏ん切りがつかなかったのではないかと思います。イエス様を慕いつつも、公にイエス様を救い主と言い表すことができず、陰でこっそりとイエス様に思いを寄せていたのです。

 ところが、そうやってこれまでビクビクしながら、こっそりと信じていたこの二人が、イエス様の十字架を境に、すっかり人が変わってしまったのです。多くのユダヤ人たちが、「この遺体は穴を掘って投げ捨てるのだ!」と考えている中にあって、この二人は大胆にも総督ピラトに願い出て、「いや、このお方の遺体は私たちが引き取ります。私たちが葬ります!」と断言したのでした。

 先程も触れましたように、十字架の死刑囚の遺体を引き取ることは、家族にのみ許されていたことでした。ですから彼らは、イエス様との間に家族同様の密接な関係を主張しながら、この遺体を引き取ったのです。これは本当に不思議なことですね。今までユダヤ人たちを恐れ、怖くて怖くて仕方がなかった人ならば、本当は今が一番怖い時であるはずです。もうイエス様は十字架の上で死んでしまわれました。今は目の前にイエス様の遺体があるだけです。本当ならイエス様が一番無力に見える時ではないでしょうか。そして、ユダヤ人たちがイエス様に対して、どこまで攻撃してくるのかも、今や明らかになりました。もしイエス様を信じていると表明したならば、今度は自分たちが同じような目に合うかも知れない。そんな時に、今まで怖がっていた彼らが、なぜイエス様の弟子であることを表明したのか、これは本当に不可解なことではないかと思います。

 十字架の周りには、母マリアと何人かの婦人たち、そしてイエス様の愛する弟子がいた、と19章25節以下のところで言われていました。本当なら、彼らが自分たちの手でイエス様のお体を丁重に葬りたかったはずです。けれども、彼らにはそれが出来ませんでした。何故でしょうか。それはガリラヤ出身の彼らには、このエルサレム近辺に自分の墓がなかったからです。墓は、自分たちの土地でなければなりません。墓もないのにイエス様の遺体を引き取るわけにはいかないのです。しかも、墓を提供してくれそうな人を悠長にさがしている時間もありません。イエス様が息を引き取られたのは、金曜日の午後3時頃であったと他の福音書では言われています。ユダヤ教の安息日は土曜日で、しかも当時ユダヤでは、午後六時から新しい一日が始まると考えられていました。ですから、イエス様が息を引き取られてから安息日になるまで、もう三時間足らずの時間しか残されていません。安息日には、たとえそれが葬りの作業であろうと、律法では許されていませんでした。この三時間足らずの間に、全ての葬りをすませてしまわなければならないのです。その間に、墓を提供してくれる人を探し出し、遺体を葬るというのは、どう考えてみても不可能です。彼らは、どんなに悲しい思いで、そこに立ちすくんでいたことでしょう。その絶望的な状況の中で、このアリマタヤのヨセフとニコデモが登場したのです。これは決して偶然ではありません。この葬りは、彼らにしか出来ないことでした。イエス様の十字架が、ここぞという時に彼らを引き寄せ、突き動かしたのです。

 この時、イエス様は、息を引き取られ、もうぴくりとも動くことが出来ません。全くの無力です。けれども、この全く無力なイエス様に向かって、確かに神様の御手は働いていたのです。神様は、アリマタヤのヨセフとニコデモを用いて、イエス様の葬りを一番ふさわしい仕方で準備なさいました。これは、私たちの人生の一コマ一コマにも当てはめることが出来ることではないかと思います。私たちは、死の時、葬りの時に自分の力を一切捨てなければなりません。もう何にも出来ない。全てを委ねる他はないのです。けれども、そういう何にもできない葬りの時に、神様は一切をご存じのお方として、豊かに働いて下さいます。人生最大の嵐の時、死の時でさえ、そうなのですから、もう私たちは安心です。全てを神様に委ねて、安心して歩んでいきましょう。

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