日曜朝の礼拝「成し遂げられた救い」

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成し遂げられた救い

日付
説教
吉田謙 牧師
26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。 27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。・・・ 30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
ヨハネによる福音書 19章25節-30節

 十字架のイエス様は、愛する弟子と母マリアとの間に新しい親子関係を結んで下さいました。これは、十字架の意味を豊かに表しているのではないかと思います。十字架のイエス様は、人と人とを新しい絆で結んで下さるお方です。今ここにいる私たちを、神様の家族として結び合わせて下さるのです。

 エフェソの信徒への手紙2章19節には、「あなたがたは神の家族である」と言われています。キリストによって私たちは神の家族になっているのです。十字架のイエス様が、今までは別々に生きていた母親と愛する弟子とを、「あなたの母です!」「あなたの子です!」と結び合わせて下さいました。私たちも、ここで十字架のイエス様を仰ぐ時に、「これがあなたの子です!」「あなたの母です!」「あなたの父です!」「あなたの弟であり、妹であり、兄であり、姉です!」と、イエス様によって結び合わされているのではないかと思います。

イエス様は、十字架の上で、最後に「成し遂げられた」と言って息を引き取られました。これは、ご自分の使命の全部を成し遂げられた、という意味です。イエス様は、天から降り、天の上にある真理を、つまり本当の神様がどんなお方であるかを、様々な奇跡を通し、教えを通し、その生き様を通して、これまでにも十分に示してこられました。しかし、それで終わりではなくて、最後にイエス様は、この十字架の上で、釘付けにされた手を大きく大きく広げて、「神はこれほどまでに世を愛された」と告げながら、完全にこの真理を明らかにして下さったのです。その上で、全てのことを成し遂げた、と宣言されたのでした。その「成し遂げた」という宣言のすぐ前にあるのが、今日の家族を結ぶ物語なのです。これは本当に意義深いことではないかと思います。「成し遂げられた!」それは、この家族を造り出すことをも含んでいました。私たちが神の家族として結ばれることが、この成し遂げられたことの中に含まれていたのです。

 また28節のところには、イエス様が最後に「渇く」と言われた時に、酸いぶどう酒をお受けになった、と言われていました。これは詩編69編22節の御言葉です。「人はわたしに苦いものをたべさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとした。」

 喉が渇いている人間に酢を飲ませる、これは完全に人をバカにした行為でしょう。十字架のイエス様は、旧約聖書の中でも、最も深い孤独を味わった人の孤独と同じぐらいの孤独を味わわれたのでした。イエス様お一人が、そういう深い孤独を、十字架の上で全部引き受けて下さったのです。もう私たちは、こういう孤独を味わう必要がありません。私たちの内に家族を造りだして下さったからです。神の家族です。私たちの内には、まだまだ沢山の欠けがあり、「神の家族」と素直に受け止めることが出来ない現実があるのかもしれません。けれども、イエス様は既に成し遂げて下さいました。教会が神の家族であることは、イエス様によって既に成し遂げられたのです。後は、それを私たちが、それぞれの仕方で、少しずつ表していけばよいのです。やがて天国で私たちは、神様のもとで、本当に家族らしい家族として過ごしていけるのではないでしょうか。

 以前、他の箇所のイエス様のお言葉を読んだ時に、「天国では、めとることも、嫁ぐこともない。夫婦の関係がなくなる。そう書いてあるけれど、これは本当ですか。寂しいですね。」と言われた方がいらっしゃいました。その方はまだ結婚されたばかりで、そう言われるのも無理のないことかなぁとも思いましたが、やはりこれは大きな勘違いです。神の家族の一番素晴らしい姿は、やはり天国で表されるはずでしょう。天国では、皆が神の家族なのです。名前だけ神の家族というのではなくて、実質的に神の家族であり、皆が親しく結び合わされているのです。もうそこでは、夫婦であるとか、親子であると、あえて言う必要はありません。地上での夫婦や親子以上の絆が、天国にいる全ての人たちの間で結ばれているのです。

 イエス様は、全て成し遂げた、と言って下さいました。ですから、私たちは、この御言葉に信頼し、天国での完成を目指しながら、互いに愛し合うことを追い求めていきたいと思います。教会が、一足飛びにそうならないのは当たり前のことです。愛することほど難しいことはないのですから。しかし、この互いに愛し合うという道筋は、もう既にイエス様によって開かれています。イエス様によって成し遂げられているのです。このことを心に刻みながら、今、自分に出来る仕方で、仕え合い、愛し合っていきたいと思います。

 この教会の中にも、この愛は既に始まっていると思います。まだまだ不完全なのかもしれません。けれども、互いに愛し合う神の家族の愛が、確かに、この教会の中でも始まっているのです。一人の方が、八方塞がりの中で、本当に苦しんでおられる時に、まるで我がことのようにして心配し、その方を励まし、執り成し祈る、これはもう既に色んな場面で、私たちが経験していることではないかと思います。まだ命を捨てるほどに愛することは出来ません。その深みまでは至っていない。けれども兄弟姉妹のために、貴重な自分の時間をさいて仕えるのです。まだ命を捨てるほどに深い憐れみに生きることは出来ません。しかし、今、自分の出来る範囲で、悲しみを共にし、祈るのです。まだ命を捨てるほどに仕えることは出来ません。しかし、私たちはイエス様の十字架の物語を知りましたから、その十字架の愛に促されて、その方のために、なすべきことを、たとえそれが小さな事であっても始めるのです。今は、まだまだ駆け出しの愛なのかもしれません。けれども、この愛は私たちがこの地上の生涯を閉じる時まで成長し続けます。そして、この地上の生涯を閉じる時には、皆がイエス様そっくりの人間になって、神の家族として堅く結び合わされるのです。その時を目指して、今、それぞれに出来る仕方で、互いに愛し合い、仕え合っていきましょう。

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