日曜朝の礼拝「十字架の王」

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十字架の王

日付
説教
吉田謙 牧師
19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。 20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
ヨハネによる福音書 19章16節-24節

 今日の箇所で多くの言葉を裂いて伝えられているのは、イエス様の十字架の罪状書きについてのやり取りです。この罪状書きには『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』(19節)と書いてありました。ピラトの気持ちからすると、これはユダヤ人に対する嫌がらせだったと思います。先週学んだようにピラトは、「このイエスを無罪放免にするなら、皇帝に直訴します」と祭司長たちから脅され、やむなくイエス様を十字架刑に処する判決を下してしまったのでした。その屈辱を晴らすためにピラトは、あえて罪状書きに「ユダヤ人の王」と書いて、ユダヤ人たちの民族としての誇りを踏みにじったのでしょう。

 けれども、ヨハネはこのやり取りを書くことで、イエス様が確かにユダヤ人の王として十字架にかかられたことを、読者たちの心に刻みたかったのです。ユダヤ人の王、これは救い主のことを言い表しています。王であるような救い主、それはどういうお方でしょうか。これは、既に二回続けて学んできましたから、もう皆様もお気づきではないかと思います。それは真理の王様です。では、この真理の王様とは、どういうお方でしょうか。

 「真理」というのは、何よりも天におられる神様の本当のお姿のことを言い表しています。そして、この天におられる神様の本当のお姿を簡潔に言い表していたのが、あの有名なヨハネによる福音書3章16節の御言葉でした。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。」この御言葉です。十字架に独り子をお与えになるほどに、世を愛しておられる神様が、目には見えない天にはおられる、これが真理の中心でした。この真理が分かったならば、私たちの周りを見る目は、きっと違ってくるでしょう。この世界は、本当に身勝手で、とんでもない世界であり、堕落しきっている。神様にも見捨てられてしまった。もう諦めるしかない。私たちにはそのようにしてしか見えてこないのかも知れません。けれども、本当はそうではないのです。聖書は、「神は、その独り子を十字架に送るほどに、世を愛された!」と語ります。神様は、決してこの世界を諦めておられません。今もこの世界を愛して愛して止まないのです。また、この真理を知ったならば、私たちは、自分についてのものの見方も、すっかり変えられるのではないかと思います。私たちは、しばしば自分が本当に弱く、ちっぽけな存在であることを思い知らされます。なすべき事が出来ず、してはならないことをしてしまう。本当に罪に汚れた人間です。自分の内側を正直に見つめるならば、自分がいかに汚れた人間であり、卑怯な人間であるかが見えてきます。本当に嫌になってしまう。けれども、本当の神様のお姿を知ったならば、それとはまた別の自分の姿が見えてくるのです。この私という存在は、神様がご自分の独り子を十字架につけてまでも救いたいと思われるほどに、愛すべき存在であり、掛け替えのない高価で尊い存在なのです。

 十字架のイエス・キリストが真理の王であるというのは、そういう真理を私たちに表し、私たちが喜んでイエス・キリストに従うことが出来るようにして下さる、という意味なのです。イエス・キリストは、あの十字架の上で、この真理の王としての役割を遺憾なく発揮なさいました。イエス・キリストは、あの十字架の出来事を通して、神様がどれほど世を愛し、どれほど私たちを愛しておられるかを鮮やかに示して下さったのです。そういう意味でも私たちは、決してイエス・キリストの十字架上での苦しみから目をそらしてはならないと思います。背中は鞭で打ちたたかれ、皮も肉もザクロのように裂けて血みどろのお方です。頭には茨の冠が突き刺さり、血が滴り落ちています。顔も平手で何度も何度も殴られて、人相が変わるぐらいに腫れあがっています。そうやってこのお方は、私たちの罪を全部背負って、苦しんで苦しんで苦しみ抜いた末に、あの十字架の上で息を引き取られたのでした。本当に見るも無惨なお姿です。そういう壮絶な苦しみを独り子に負わせるほどに、神様は世を愛され、私たちを愛して下さったのです。私たちは、この世についての自分の考え方を変えなければなりません。また自分についての考え方も変えなければなりません。自分の家族についても、隣人についても、兄弟姉妹についても、私たちは十字架のイエス・キリストを通して、考えを変えなければならない。イエス・キリストが真理の王であるというのは、こういう仕方で私たちを導き、従わせ、考えをすっかり変えてしまわれるお方なのだということでしょう。

 この「ユダヤ人の王」という罪状書きは、三つの国の言葉で記されていました。ヘブライ語とラテン語とギリシャ語で書かれていた、と言われています。ヘブライ語は、ユダヤ人の言葉であり、ラテン語はローマ帝国の公用語、ギリシア語は当時の世界共通語でした。そういう三つの言葉で罪状書きが書かれていたというのは、イエス・キリストが、これらの言葉を話す全ての人々の王である、ということを意味していたのです。ユダヤ人のように、たとえどんなに素晴らしい宗教をもち、神様のことが分かっているつもりでいても、私たちの救いのために独り子を十字架に与え尽くすような神様を知らなければ、その人は神様の本当のお姿が分かっているとは言えません。またローマ人のように、たとえこの世の最高の権力を握っていたとしても、この十字架のイエス・キリストを通して私たちを愛して下さる神様を知らなければ、本当の意味で力強い生き方は出来ません。この世の力は、人生の悲しみや自分の内側にこびりついている罪に打ち勝つことが出来ないからです。またギリシャ人のように、どんなに素晴らしい文化を生みだし、優れた知恵をもっていたとしても、この世界と人間とが、神様の愛の中で育まれていることを知らなければ、私たちは、この世界と私たちが何のために存在しているのかが分からないのです。やはり彼らにも真理の王である十字架のイエス・キリストが必要なのです。

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