日曜朝の礼拝「真理の王」

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真理の王

日付
説教
吉田謙 牧師
37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」38 ピラトは言った。「真理とは何か。」
ヨハネによる福音書 18章28節-38節

 今日の箇所には、ローマの総督ピラトのもとでの尋問の様子が記されています。様々なやり取りの中でイエス様は、「私は、真理によって人々を従わせる王なのだ!」とお答になったのです。するとピラトは、「真理とは何か?!」(38節)と言ったまま、途中で話を打ち切り、官邸の外に出て行ってしまいました。つまりピラトは、「お前から真理について聞こうとは思わない。お前の言う真理とは何か?!」と言い放ち、外に出てしまったのです。おそらく、この時のピラトにとって、イエス様が語る真理などどうでもよかったのでしょう。自分がユダヤを治め、政治家としてうまく立ち回るために何の役にも立たない、と考えていたのではないかと思います。

 このピラトという人は、歴史の資料によると、この数年後にサマリア人虐殺を咎められ、ローマに強制送還されることになりました。そして総督の職を解かれ、それを悲観した彼は、とうとう自殺してしまったのです。「真理とは何か?!」と、この時、イエス様が指し示す真理を嘲り、無視したピラトは、目先のことばかりに目を奪われ、本当に大切なものを見極めることが出来ませんでした。そんな彼は、人生の大きな嵐がやってきた時に、人生に絶望し、諦めて、ついにはその嵐に呑み込まれてしまったのです。

 「真理とは何か?!」これは、この世の生き方には全く関わりない、浮世離れした議論ではありません。私たちの命にかかわる大切な問題です。では真理とは何でしょうか。色んな真理があると思います。しかし、ここで問題になっているのは、人生の鍵を握る重要な真理です。それが分かったなら、自分がどういう存在であり、この世界がどういう世界なのかが見えてくる、そういうとても重要な真理なのです。

 ヨハネによる福音書には、この「真理」という言葉が沢山でてきます。全部で二十四回も出てくるのです。これは本当に驚くべきことではないかと思います。この「真理」という言葉は、マタイによる福音書には一回、マルコによる福音書とルカによる福音書には、それぞれ三回しか出てきません。それと比べると、ヨハネが、この「真理」という言葉をいかに大切な言葉として受け止めていたのかがよく分かります。

 ヨハネによる福音書では、このイエス様のことが「上から来られた方」、天の世界から来られたお方として、何度も紹介されていました。イエス様は、この天から来られたお方として、天上のこと、天の上にある事実を地上に知らせて下さったのです。それが真理です。では、天の上にある事実とは、いったい何でしょうか。それは神様についての事実です。この地上を越えた、私たちに見ることが出来ない天に、私たちを極みまで愛し抜いて下さる神様がおられるのです。ヨハネによる福音書の中心の御言葉は、このことを簡潔に言い表していました。「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)。天上の神様の愛が、キリストを贈り物にするという仕方で、この地上にまで届いてきたのです。これがイエス様がその誕生と十字架によって明らかにされた真理の中心でした。この真理を知ったなら、この世界の本当の姿と自分の本当の姿に目が開かれるはずなのです。

 この世界には沢山の辛いことや悲しいことがあります。新聞やテレビのニュースを見ると、本当に目を覆いたくなるような報道が、毎日毎日繰り返されています。この世界は、本当に身勝手で、自己中心的で、醜く、絶望的ではないか、と思いたくなります。けれども聖書は、「神は、その独り子を十字架に送るほどに、世を愛された!」と語るのです。自分が住んでいるこの世界は、とんでもない世界であって、もう堕落しきっている。どうにもならない。神様にも見捨てられてしまった。諦めるしかない。ある人たちには、そのようにしてしか見えてこないのかも知れません。けれども、本当はそうではないのです。神様は、この世界を諦めておられません。今もこの世界を愛して愛して止まないのです。

 あるいは、自分自身を見つめる時に、私たちは、しばしば自分が本当に弱く、ちっぽけな存在であることを思い知らされます。なすべき事が出来ず、してはならないことをしてしまう。本当に罪に汚れた人間です。自分の内側を正直に見つめるならば、自分がいかに汚れた人間であり、卑怯な人間であるかが見えてくるのです。本当に嫌になってしまう。けれども、イエス様を知るならば、この私についても、全く新しいことが分かってきます。この私という存在は、神様がご自分の独り子を十字架につけてまでも救いたいと思われるほどに、愛すべき存在であり、掛け替えのない高価で尊い存在なのです。本当に信じられないことですが、イエス・キリストの十字架によって、私たちの罪は全て赦され、私たちは神様に責められるところが何一つない存在とされたのでした。

 こうして私たちは、イエス様によって示されたこの天の事実、真理を知る時に、この世界についても、また自分自身についても、全く新しい目で見ることが出来るようになります。そしてそのことによって私たちは、力づけられ、なお諦めることなく希望をもって生きることが出来るのです。決して私たちが望むような結果が得られるわけではありません。そうではなくて、イエス・キリストに出会い、このイエス・キリストが命懸けで証しして下さった真理に目が開かれたならば、私たちは、これまで歩んで来た道のりや、今、置かれている状況、これから私たちが歩んで行こうとしている道を、私たちをこよなく愛しておられる神様の御手の中にあることとして、明るい希望の光のもとで受け取り直すことが出来るのです。その時に、自分を取り巻く状況の色が一変するのではないかと思います。重く暗い景色が、軽く明るい、喜びと希望に満ち溢れた穏やかな景色に変わっていくのです。

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