日曜朝の礼拝「主イエスを証しする者」

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主イエスを証しする者

日付
説教
吉田謙 牧師
20 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。21 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
ヨハネによる福音書 18章12節-27節

 今日の箇所には、イエス様が元大祭司のアンナスに尋問された記事とペトロがイエス様の弟子であることを三度も否定したという有名な物語が伝えられています。このペトロの裏切りの物語は、四つの福音書全てに伝えられています。しかし、このヨハネによる福音書のペトロの裏切りの物語には、他の福音書にはない、幾つかの特徴があります。その特徴の一つは、このペトロの裏切りの物語とアンナスの尋問の話が同時進行で交互に語られている、ということです。ヨハネは、このように語ることで、尋問に堂々と応じられたイエス様と、臆病にイエス様のことを拒んでしまったペトロとを対照的に描き出そうとしているのです。しかし、ただそれだけではありません。イエス様は、アンナスの尋問に対して、ご自分の教えのことは一切語らず、「私の教えを聞いた人々に尋ねるがよい」と言われました。実際にイエス様の教えを聞いた人々は大勢いたと思います。しかし、その中でも、イエス様の教えについて、誰よりも正確に証言できたのは、いったい誰だったでしょうか。それは、ペトロを初めとする直弟子たちでした。ペトロの裏切りは、イエス様が「私ではなく、私の教えを聞いた人に尋ねるがよい!」と証言者を求められたその時に起こったのです。これがヨハネがここで最も語りたかったことでした。本当は弟子であるペトロが、「イエス・キリストはこういうお方であり、こういう教えを語られるお方なのだ!」と証言しなければならなかったのです。それなのにペトロは、「私はイエスの弟子ではない」とイエス様を拒み、イエス様のことを証言しなかったのでした。つまり、証言が求められている一番肝心な時にペトロは裏切ってしまったのです。ヨハネは、このことを伝えることによって、私たち読者たちに、あなた方も十字架のイエス・キリストによって証言が求められている。あのペトロのような失敗を繰り返してはならない、と語りかけているのではないかと思います。

 ヨハネによる福音書のペトロの裏切りの物語のもう一つの特徴は、このペトロの裏切りの物語の前に、大祭司カイアファの言葉が紹介されていることです。「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。」(14節)。このカイアファの言葉については、以前学んだ11章49節以下に既に報告されていました。そこには「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」と言われていました。「一人の人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないで済む!」これは将にイエス様の十字架のお姿そのものではないかと思います。「イエス・キリストが私たちに代わって十字架の上で死んで下さったので、私たちは滅びないで済む!」この十字架の意義が、この時、大祭司カイアファの口を通して語られたのです。

 また、ここには「散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ」と言われています。この「散らされている」という言葉は、羊たちが羊飼いを失い、散り散りバラバラになっている時に使われる言葉です。羊飼いを失った羊は、獣に襲われ、死んでしまうかもしれません。あるいは美味しい水や牧草にありつけず、飢え死にしてしまうかもしれない。このように、「散らされている」というのは、羊飼いのもとを離れ、本当に心配な状態にあることを意味しているのです。しかしヨハネは、ただ「散らされている」と言ったのではなくて、それを「散らされている神の子」と解説しました。今は羊飼いのもとを離れて、本当に心配な状態にあるのです。しかし彼らも、神様が本当に心配しておられる神の子であり、この散らされている神の子たちを一つに集めるためにも、イエス・キリストは死んで下さった、とヨハネは解説したのです。

 ヨハネは、このカイアファの言葉を、裏切るペトロの物語の前に紹介しました。ペトロはまるで散らされた神の子のようですね。イエス様と神様に愛され、弟子の中心にいたペトロが、サタンの誘惑にさらされて、信仰につまずき、イエス様のもとから遠ざかってしまいました。将に神の子が散らされてしまったのです。ところが、今、捕らえられ、十字架に向かわれるイエス様は、散らされる神の子たちのためにも死んで下さった、と言うのです。即ち、このペトロの裏切りの罪をもイエス様は背負って下さったのだ、とヨハネは伝えようとしているのです。

 この後、ペトロは散らされてしまいます。しかし、この散らされたペトロを呼び戻すためにもイエス様は十字架の上で死んで下さいました。ですから、ペトロは散らされても、もう一度、神様のもとに戻ってくることが出来るのです。これが福音書記者ヨハネが私たちに気づかせたかったことなのです。

 立ち直ったペトロは、まるで別人のようになりました。彼は文字通り、命懸けで、イエス・キリストを証ししたのです。その時に、彼の失敗や挫折は、立派な証しとなりました。「今の自分があるのは、信仰深かったからとか、一生懸命修行を積んだからではない。私は、かつてこんなにも弱い人間であった。こんなにも愚かで不甲斐ない人間であった。けれども主は、そんな私をお見捨てにならなかった。私は主を裏切ったのに、主は、なお私を愛し、憐れんで下さった。あなたも、自分自身の弱さや汚れや罪に嫌気がさして、今、ヤケになっているのかもしれない。押しつぶされそうになっているのかもしれない。でも大丈夫!こんな私でさえも救われたのだから、あなたもきっと立ち直れる。どうかこのキリストの十字架の愛をあなたも受けとめて欲しい!」おそらくペトロは、自分の全存在を賭けて、一生涯、この証しをし続けたのではないかと思います。

 私たちも、ペトロと同じように、神様に従おうとする中で様々な失敗や挫折を経験します。しかし、何も恐れる必要はありません。「そんなあなたの弱さと罪と敗れのために、私は十字架の上で死んだ。もうあなたの罪は赦されている。だから失敗や挫折を恐れることなく、安心して私に従いなさい!」このように主は繰り返し私たちを招いて下さいます。

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