日曜朝の礼拝「キリストの栄光」

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キリストの栄光

日付
説教
吉田謙 牧師
1 父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
・・・ 5 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
ヨハネによる福音書 17章1節-5

 前回まで私たちはイエス様り送別の説教を学んできました。今日から学ぶ17章は、その説教後のイエス様の祈りになっています。イエス様は、そういう祈りの最初に、ご自分の栄光のために祈られました。これは、この祈り全体の内容からすると、少々不自然な気がじます。イエス様にとって一番大切なのは、結局、私たちや弟子たちのことではなくて、ご自分のことだったのでしょうか。決してそうではありません。それは、今日の箇所でイエス様が求められた、その栄光の中身を学んでいくと、次第に明らかになっていくことでしょう。この祈りは、こういう祈りで始まっています。1節の中頃。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」

 「時が来ました」、この「時」というのは、ヨハネによる福音書においては、十字架の時を言い表しています。イエス様は、これまで、この十字架の時を目指して歩んでこられました。いよいよその十字架の時がやってきたのです。この言葉は、そういう気持ちを表した言葉でした。それで十字架の前の夜にイエス様は、「明日、私は十字架につきます。いよいよこの時がやってきました。ですから、私に栄光をお与え下さい!」と祈られたのです。

そして、5節のところで、「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を!」と祈られ、この祈りの最初の祈祷課題である「ご自分の栄光のために」という祈りを閉じられたのでした。

 この「今」というのは、最後の晩餐の時の「今」ではなくて、十字架の時のことです。1節のところで、「父よ、時が来ました」と言われている、この「今」であります。これは「十字架の時がやってきた今という時に、私に栄光をお与え下さい」という祈りです。このようにイエス様の祈りは、ご自分の栄光を求める祈りから始まっていたのですが、それは私たちを忘れて、ただひたすらご自分の栄光を求めるような祈りとは随分と違っていました。イエス様の栄光とは、救い主としての素晴らしさを現すことでした。そして、その救い主としての素晴らしさが一番現れる、この十字架を前にして、「このことをやり遂げる力をお与え下さい。このことを通して、世界が造られる前から私が本来持っていた力が豊かに現されますように!」と主は祈られたのです。

 私が会社務めをしていた時に、親しくしていた後輩に子供が産まれました。彼はとても有能で、上からもかなり期待されていた優秀な人物でした。しかし彼は全く出世欲がなくて、自分は一生、平社員でもかまわない。その代わりに会社には絶対に縛られたくない。言いたいことはガンガン言わせてもらう。彼は、そういう主義の人間でした。そんな彼が、子供ができた途端に、急に変わったのです。彼は、「出世がしたい!」と言い出しました。彼は、奥さんと二人の時には、本当に自由奔放に生きていたのです。けれども、子供ができた途端に、彼は急に変わりました。「早く出世し、給料を沢山もらって、この子を幸せにしてやりたい!そのためには、少々、会社から無理難題を言われたとしても、文句を言わずに受けとめていきたいと思う!」彼は、急にこういうことを口にするようになっていったのです。「すごい変わりようだなぁ!」と感心したことを、今でもよく覚えています。我が子ができた時に、即ち守るべき存在、保護すべき存在ができた時に、彼は自分に力が欲しいと思ったのです。これは、彼がそれほどまでに我が子を愛していたことの証しでありましょう。

この時のイエス様も同じです。何故、イエス様はこんなにまでして、しつこくご自分の栄光を求められたのでしょうか。それは、イエス様にとって、私たちはそれほどまでに愛おしく、大切な存在であった、ということです。今日の2節のところに、「子はあなたからゆだねられた人すべてに」と言われています。あるいは6節のところに、「世から選び出してわたしに与えてくださった人々」と言われています。イエス様に、保護すべき者たちが神様から委ねられたのです。それは他でもない私たちのことでした。一人の子供を持った父親が力が欲しい、お金が欲しい、と願ったように、イエス様も神様から沢山の者たちを委ねられ、「私に栄光をお与え下さい!」と真剣に祈られたのです。

 また、イエス様が執拗なまでにご自分の栄光を求められたのには、もう一つの理由がありました。たとえイエス様が私たちのことを愛おしい存在と考えて下さったとしても、間近に迫った十字架の時が、楽々と乗り越えられるようなものであったなら、こんなにもしつこく祈る必要はなかったでしょう。この十字架を目の前にした時に、イエス様が執拗なまでにご自分の栄光を求められたというのは、それだけ十字架がイエス様にとっても大事業であったということです。十字架というのは、死刑の中でも、もっとも残酷で、辛い刑罰でした。鞭打たれ、手や足を釘で打ち抜かれ、十字架に張り付けにされて、脇腹を槍で刺し貫かれ、苦しんで苦しんで、苦しんだあげくに死んでいくのです。しかも、この十字架の苦しみは、そういう肉体的な苦しみが全てではありませんでした。もっと壮絶な苦しみがそこにはあったのです。それは私たちの身代わりとして私たちの罪を全部背負い、神様の怒りと呪いを一身に受けて、壮絶な死を遂げるということでした。神様から完全に見捨てられ、地獄の苦しみを味わわなければならない。これまで神様とずっと一緒にいて、神様との交わりが断たれることの恐ろしさを誰よりもよくご存じであったイエス様にとって、この苦しみは想像を絶するものであったと思います。マタイ、マルコ、ルカによる福音書によると、イエス様はこの時にゲツセマネという園に行き、血の滴るようにして汗を流されながら、「出来ることなら、この十字架の苦しみを私に負わせないで下さい!」と祈られたと言われています。それほどまでに、この十字架は、イエス様にとっても、想像を絶する重荷であった、ということでしょう。だからこそ、祈らざるを得なかったのです。「この大事業を立派にやり遂げ、救い主としての栄光を現すことができるように!」と。

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