日曜朝の礼拝「悲しみが喜びに変わる」

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悲しみが喜びに変わる

日付
説教
吉田謙 牧師
20 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。・・・ 22 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。・・・
23 あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。
ヨハネによる福音書 16章16節-24節

 復活のイエス様に出会う時に、悲しみは喜びに変わり、そしてその喜びを奪い去る者は誰もいない、とイエス様は約束して下さいました。どうして、そんなことが言えるのでしょうか。それは、その喜びや悲しみが、このイエス様によって決定づけられる喜びであり、悲しみであるからです。弟子たちは、イエス様が十字架につけられた時に悲嘆にくれました。それは、死んだらもうお終いだ、もう二度とイエス様にお会いすることが出来ない、と思っていたからです。けれども彼らは、再び復活のイエス様にお会いすることが出来ました。その時に彼らは、喜びに満ち溢れたのです。そして、その喜びはもう失われることがなかった。イエス様が天に昇られた後も、今度は、別の弁護者、つまり、聖霊が彼らに与えられて、イエス様は霊において彼らと共に歩んで下さったからです。彼らの喜びの鍵は、このイエス・キリストを見るか見ないか、イエス・キリストに会うか会わないかでした。勿論、彼らにも、苦しいことや悲しいこと、辛いことが一杯あったことでしょう。むしろ、イエス様が十字架にかけられた後の方が、直接、迫害が彼らに及んでいったわけで、決して喜びとは言えないような状況が彼らを取り囲んでいたはずです。にもかかわらず彼らは、このイエス様のお言葉通り、もう喜びを失うことがなかったのです。何故でしょうか。それは、彼らがイエス様の圧倒的な魅力に見せられてしまったからです。もう目先の苦しみや悲しみなど吹っ飛んでしまうような、圧倒的な魅力がイエス様にはあったのです。勿論、三年間、寝食を共にした地上のイエス様のお姿も魅力溢れるものでした。けれども、彼らが再びお会いした復活のイエス・キリストのお姿には、それを遙かに上回るような凄まじいまでの魅力があったのです。それは十字架と復活の魅力と言ってもよいでしょう。

 悲しみや苦しみ、嘆きの中を歩むことは、本当につらいことです。私たちは、そのような時を決して避けることが出来ません。人生には必ずそのような時があるのです。そんな時に私たちは、せっかくイエス様が与えて下さった誰にも奪い去ることの出来ない喜びを、簡単に手放してしまうのではないかと思います。けれどもイエス様は、そんな私たちのために、もう一度、その喜びを取り戻す秘訣を教えて下さいました。23節後半。「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

 イエス様の名によって父なる神様に祈る。この祈りがなければ、私たちは、悲しみや苦しみ、嘆きによって弱り切っている中で、明日に向かって希望をもって歩んでいくことが出来ません。悲しみや苦しみ、嘆きの暗闇の中で、私たちは、十字架の死を打ち破り、御子イエス・キリストを復活させられたお方の全能の力、御子を十字架につけてまで私たち一人一人を愛し抜いて下さる、この驚くべき愛に裏付けられた全能の父なる神の力を信じて祈るのです。これは、悲しみや苦しみ、嘆きの背後にある暗闇の力に対抗する最も力ある武具ではないかと私は思います。使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙の中で、こう言いました。「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソ6:10)。

 使徒パウロは、自分たちの敵が誰であるのかをちゃんと知っていました。私たちから生きる力と勇気とを奪い、出口のない嘆きや悲しみに私たちを押し込めようとする暗闇の支配者、悪魔、サタン。彼らの最後の砦は死です。しかし、私たちの主イエス・キリストは、悪魔の最後の砦である死をも打ち破り、復活なさいました。この復活の主が、どんな暗闇の中にあっても私たちと共にいて下さるのです。

 私たちが悲しみや苦しみの中で、傷を負い、呻き苦しんでいる時に、本当の意味で慰め、癒してくれるのは、自ら傷を負う救い主をおいて他にないのではないかと思います。自分では傷を負わず、傷を負うところに身を置こうともしないで、高いところから相手を癒そう、治そうとしても、本当の意味では癒すことなど出来ません。私たちの目線に立ち、その負っている悲しみを、その痛みを、その傷を本当に身をもって体験し、涙したものでなければ、その心の奥深くにある傷には決して届かない。イエス・キリストは自ら傷を負い、私たちと同じ所まで降りてきて下さいました。私たちが悲しみの中で痛み苦しむ以上に苦しみ、その痛みを負って下さいました。私たちの罪を一手に担って十字架の上で死んで下さったのです。しかも、ただ同じところに立ち、悲しみを共にして下さるだけではなくて、十字架の死に打ち勝ち、甦って下さったお方として、その傷を完全に癒すことの出来るお方として私たちのところに来て下さいました。そのお方が「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して下さるのです。何という幸いでしょうか。これこそが私たちの喜びであり、希望です。私たちは、祈ることによって、この喜びと希望を、今一度、思い起こし、明日に向かって希望をもって歩み出すのです。

 この後、「主は今生きておられる」という讃美歌を歌います。こういう賛美です。「主イエスはわがため十字架にかけられ、わが罪あがない 墓より蘇られた。主は今 生きておられる。わがうちにおられる。すべては主の御手にあり、明日も生きよう、主がおられる。」

 私たちの罪を全部背負い、神様の怒りと呪いを一身に担って十字架の上で死んで下さったお方が、今は罪と死の力を打ち破り、復活なさって、私たちの歩みの全てを守り導いて下さいます。どんな暗闇の中にあっても、主が私たちと共にいて、共に闘い、共に労苦し、共に涙して下さいます。そうやって主は、私たちに、その時々に相応しい慰めを与え、励ましを与え、私たちをしっかりと支えて下さるのです。明日のことは、私たちには分かりません。でも大丈夫です。主は今も生きておられます。私たちと共に歩んで下さるのです。明日も、この復活の主イエス・キリストと共に、希望をもって歩んでいきましょう。

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