日曜朝の礼拝「試練の日の慰め」

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試練の日の慰め

日付
説教
吉田謙 牧師
16:1 これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。
ヨハネによる福音書 15章18節-16章4節

 今日の箇所には、イエス様が弟子たちに語られた「迫害の予告」が記されています。そして、ここでイエス様は、その時につまずくことがないようにと、あらかじめ慰めの言葉を語って下さったのです。

 イエス様が語られた第一の励まし(18-21節)は、世に憎まれるのは、イエス様に選ばれている「しるし」なのだ、ということです。前回学んだ15章16節を見ると「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われていました。このことからも、イエス様は私たちのことを友として選ばれたことが分かります。また、もう少し遡って13節を見ると、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とも言われていました。この一連の御言葉から、イエス様は最高の友として、「あなたのために命を捨てる」と言われながら、私たちを友として選んでくださったことが分かります。これは本当に恐れ多いことですね。イエス様は、どうして私のような者をわざわざ選び、私のために死のうとして下さったのでしょうか。本当に不思議です。けれども、どういうわけか私たちは、そうやって選んでいただいたのです。これは本当に嬉しいことではないかと思います。真の友というのは運命共同体です。嬉しい時も悲しい時も、ずっと一緒です。私たちは、そういうイエス様の友として、イエス様と運命を共にするのです。今日の箇所でイエス様は、イエス様ご自身が世から憎まれていることや、イエス様ご自身が世から迫害されることを教えられました。私たちがイエス様によって選ばれ、イエス様の友になっているならば、私たちもそのイエス様と運命を共にするはずです。「私があなたを選んだ。私はあるがままのあなたを愛する。あなたは決して一人ではない。どんな時でも私が共にいる。私とあなたとは運命共同体なのだ!さぁ、元気を出して私と共に歩み出そう!」主はこのように私たちを励まして下さるのです。

 イエス様が語られた第二の励まし(22-25節)は、イエス様が世から憎まれているのは、正当な根拠があるわけではないので、たとえイエス様と運命共同体である私たちが世から憎まれたとしても、それも根拠のない憎しみであり、理由もなく憎まれているのだから、そのことで自信を失う必要はない、ということです。

 では、どうしてイエス様は、正当な根拠がない、と断言できたのでしょうか。世がイエス様と神様を憎んだのは、イエス様のお言葉を聞き、イエス様が行われた御業を見た上でのことでした。では、このイエス様のお言葉とイエス様の御業は、人々に何を伝えていたのでしょうか。それは、あの有名なヨハネによる福音書3章16節、17節の御言葉に集約されていました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

 この「世」という言葉は、ヨハネによる福音書では、「神に敵対している人間たち」という意味で用いられています。神様は、ご自分に敵対している世の人々を憎まれたのではなくて、愛されたのです。また、ご自分に敵対している者たちを裁くためではなく、彼らを滅びから救い、永遠の命を与えるために御子を遣わして下さったのでした。これがイエス様が、その言葉と御業によって繰り返し伝えようとしたメッセージでした。ところが世の人々は、一所懸命、言葉と行いによって神の愛を伝えようとしたイエス様のことを憎んだのです。これが正当な理由もなく憎まれているとイエス様が語られた中身です。それで、もし私たちが神様の愛を証ししているのに、非難され、憎まれるならば、「それも根拠のない憎しみであり、理由もなく憎まれているのだから、あなた方はそのことで自信を失う必要はない!」と主は励まして下さったのです。

 初代教会の人々は、ユダヤ人だけではなくて、やがてローマの人々にも、厳しい迫害に合うようになりました。そして、この厳しい迫害は、この後、約三百年間も続いたのです。川が氾濫したり、飢饉が起こったり、疫病が流行ると、決まってクリスチャンがやり玉にあげられました。「あんなクリスチャンたちがのさばっているから、この世は呪われるのだ。クリスチャンを捕らえ、ライオンに食わせよ!」全く根拠のない言いがかりです。けれども、そのような言いがかりによって、多くのクリスチャンたちの命が奪われていきました。その時、初代教会の人々はどうしたでしょうか。自信を失ったでしょうか。「憎しみには憎しみを!」と、やり返したでしょうか。あるいは、「今は迫害の時だから、ひっそりと隠れていよう。やがて迫害がやんだなら出て行けばよい!」そう言ってビクビクしながら隠れ潜んでいたでしょうか。決してそうではありません。教会は、今日のイエス様のお言葉に励まされながら、迫害の中にあっても、決してひるむことなく、むしろ大胆に福音を宣べ伝えていったのです。憎しみにさらされながらも、憎しみ返すのではなくて、「あなたも神様に愛されています。あなたのためにもイエス・キリストは死んでくださいました。悔い改めて、この福音を信じてください!」と大胆に神の愛を語り告げたのです。このクリスチャンたちの姿が、次第に人々の心を動かしていきました。「死をも恐れずに命がけで神の愛を伝えようとしている、この人たちの情熱や信仰は本物ではないか?!」と。

 イエス様が語られた第三の励まし(26-27節)は聖霊が証しをして下さる、ということです。初代教会の人々が、迫害の中にあっても光り輝いていたのは、決して彼らの力ではありません。迫害の中にあっても、敵を愛し、赦し、受け入れる。憎しみに対して、愛をもって報いていく。これは、到底、人間に出来ることではありません。そこに聖霊が働いて下さったからこそ、実現できたことでしょう。初代教会の人々の内側で生き生きと働いておられる同じ聖霊が、私たちの内側でも働いておられます。ところが、私たちの内側で、聖霊が生き生きと働いておられると感じないのは何故でしょうか。それは、私たちの内側には一杯混ざりものがあるからです。あれも、これもと、色んな拠り所があって、結局、私たちの内側には聖霊が働かれる場所がほんの僅かしかないのです。

 では、聖霊が豊かに働かれる秘訣とはいったい何でしょうか。ウエストミンスター小教理問答には、聖霊は、主に御言葉を通し、礼典を通し、祈りを通して働く、と言われています。 何も難しいことではありません。御言葉に聞き、祈るということ、ただそれだけのことです。長時間、祈り、長時間、聖書を読むことが重要なのではありません。要するに、そこに心があるかどうかでしょう。たとえ五分でも十分でもいい、本当に心から喜んで日々御言葉に聞き、祈っているならば、私たちの内側で聖霊は豊かに働き始めます。そして、その時に、聖霊は、イエス様と交わることがこんなにも素晴らしいことなのかと、きっと私たちにも悟らせて下さるでしょう。

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