日曜朝の礼拝「主イエスが残される平安」

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主イエスが残される平安

日付
説教
吉田謙 牧師
27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。・・・ 30 もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。31 わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。
ヨハネによる福音書 14章25節-31節

 この「平和」という言葉は、「平安」とも訳すことの出来る言葉です。今日の箇所は、むしろ「平安」と訳した方がよいと私は思います。私たちは、それぞれの人生の中で、様々な平安を味わうことがあります。イエス様が歩まれた時代は、ちょうど「ローマの平和」を味わっている時代でした。戦争がほとんど終結し、ローマの国が全てを平定している平和な時代です。戦争がない時に、やはり私たちは平安を味わうのです。あるいは物事が順調に進んでいる時に、私たちは平安を味わいます。例えば健康な時に、また家族が幸せ一杯の時に、あるいは仕事が充実している時に、私たちはやはり平安を味わうのではないかと思います。けれども、そういうものが失われる時に、私たちの心は、たちまち平安ではなくなります。人生の嵐を経験するのです。世が与える平和、世が与える平安は、そういうものではないでしょうか。要するに状況次第なのです。昨日までは平安だったのに、今日は一転して嵐になることがある。しかしイエス様は、それとは全く別の平安を与える、と弟子たちに約束なさいました。イエス様が十字架に死なれた後でも残るような平安、人生の嵐に出会っても決して失われることのない平安です。イエス様は、十字架に死なれる前の夜に、その送別の説教の中で、「あなた方にそういう平安を与える」と約束して下さったのでした。

今日の30節の御言葉は、十字架に進まれるイエス様の揺るぎないお姿を示しています。。「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。」

 「世の支配者が来る。」これは悪魔、サタンがイエス様の命を奪いにやって来る、ということです。ところが、そのサタンはイエス様に何にも出来ない、どうすることも出来ない、と主は言われました。これはいったいどういうことでしょうか。イエス様は十字架のことを次のように説明なさいました。31節。「わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。」

十字架というのは、本来、サタンが多くの人々を用いて周到な準備をし、サタンの圧倒的な力によってイエス様の命が奪われる、ということでしょう。けれども、この十字架には、もう一つの側面があるのです。それは、イエス様が父なる神様を愛し、父のお命じになった通りにおこなった、ということです。サタンの攻撃が起こっているその場所が、父なる神様に従う場所になった、と言うのです。こう言われてからイエス様は、「さあ、立て、ここから出かけよう。攻撃してくるサタンに立ち向かおう!」と言われたのでした。

 世の支配者が来るのです。サタンの攻撃が全くない、そんな平安な時ではありません。しかし、サタンが力を発揮しているかのように思えるその場所も、本当はサタンの力は届いていなかった。サタンは多くの人々を利用してイエス様を十字架につけて殺そうとしましたが、結局、それによってイエス様を滅ぼし、父なる神様の救いの御業を潰えさせることは出来なかったのです。イエス様は、そのことをしっかりと見据えながら、「さあ立て、ここから出かけよう!」と弟子たちを促されました。この世の様々な苦しみや不安は、ある意味、サタンの仕業としか言いようがないのかもしれません。サタンの攻撃を私たちは確かに受けているのです。けれども、イエス様は、その時に、そういう場所で、神様を愛し、神様に従うことが出来る、そのことを現されながら、「さあ、立て、ここから出かけよう。私と同じ歩みをあなた方もするように!」と弟子たちを招かれたのでした。

 今日の箇所で、イエス様の送別説教は一段落つくことになります。しかしイエス様は、この後すぐにゲツセマネの園に向かわれたのではなくて、この後も、また新たな送別説教を語られるのです。そして、その第二の送別説教を、イエス様はこのような言葉で結んでおられます。16章33節。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 イエス様が与える平安はこういう平安です。「あなたがたには世で苦難がある。」サタンはもう働かないというのではなくて、苦難は確かにあるのです。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世の支配者、サタンに勝っている。その苦難を味わう場所で神様に従い、神様を愛することが出来る。私はそのことを既に経験しているのだから、あなた方も勇気を出しなさい!」こうイエス様は弟子たちを励まされたのでした。多くのクリスチャンが、こういう仕方で平安を味わっているのではないかと思います。重い病気にかかり、大手術をする時に、また家族に心配事がある時に、あるいは経済的な心配がある時に、また人間関係がこじれてしまった時に、あるいは人生の分かれ道に立ち、大きな一歩を踏み出そうとする時に、私たちはやはり心騒ぐことがあるのです。心配で心配で、一晩中、眠ることが出来ないことを私たちも味わうことがある。しかし、たとえそうであったとしても、それで終わってしまうようなクリスチャンは、やはりいないのではないかと思います。私も、沢山の心配事を抱え込み、夜、眠れなかったことが何度もありました。けれども、そういう時を過ごした後に、やがてクリスチャンであるからこそ味わえる平安を味わうことが出来たのでした。これがイエス様が与えて下さる平安です。この世が与える平安とは違う、嵐の日でも味わえるような平安であります。私たちは、この平安を、これまでにも何度も味わってきたのではないかと思います。

 全てが順調であるから平安なのではありません。様々な試練があるのです。しかし、その中でイエス様を愛することが出来る。その場所においても神様が私に命じておられることがあり、それを行うことが出来る。この平和をイエス様は私たちに残して下さいました。「残す」というのは、遺産を残すようなものでしょう。死んで天に帰っていかれるイエス様は、このことを遺産として、私たちに残して下さったのです。その遺産とは、どんなことがあっても崩れることのない平安、苦難の中にあっても味わえるような平安であります。様々な事柄に心掻き乱され、ただ右往左往するのではなくて、イエス様が残して下さった、この平安に、いつも立ち返る者でありたいと思います。

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