日曜朝の礼拝「私たちの内に現れるキリスト」

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私たちの内に現れるキリスト

日付
説教
吉田謙 牧師
23 わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
ヨハネによる福音書 14章22節-24節

 今日の箇所には、大変に心惹かれる質問が記されています。「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」という質問です。私たちは、信仰生活を続けていく中で、イエス様が私に現れて下さることをしばしば経験します。病や試練の時に、イエス様が本当に近くにいて下さることが分かった、こういうことを多くの方々が経験するのです。そういう特別な経験でなくても、ある日の礼拝で、あるいは、ある日、聖書の御言葉を読んでいる時に、イエス様がどんなに素晴らしいお方であるかが分かった、イエス様の途轍もなく大きな愛に目が開かれ、新鮮な思いでイエス様を心にお迎えすることが出来た、これは教会の中で、おそらく毎週のように起こっている出来事ではないか、と私は思います。

 しかし、こういうことを味わう時に、特に思わされることは、どうしてこの同じことを、私の愛する家族や友人、周りの方々に分かってもらえないのだろうか、ということです。今日の弟子の質問は、この点に関する質問でした。「何故、私たちだけがあなたが生きておられ、私たちに愛を注ぎ、私たちに現れて下さることを経験するのでしょうか。どうして、あなたは世の人々に同じことを現して下さらないのですか?」今日の箇所には、この質問に対するイエス様のお答えが記されています。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」(23節,24節)

 ここに、イエス様が弟子たちには現われて下さるのに、世には現われて下さらない理由が説明されています。ここでイエス様は、ご自分を人に現す行為を、「一緒に住む」という言葉で言い表されました。つまりイエス様は、一緒に住むという仕方で現れて下さる、ということです。イエス様は、アニメや映画に登場する正義の味方のように、突然あらわれて、悪党をやっつけたならば、瞬く間に去っていくようなお方ではありません。イエス様は、「一緒に住む」という仕方で現れて下さる、と主は説明して下さったのです。この「一緒に住む」というのは、愛の関係がその土台に据えられていることが前提になっています。何故ならば、互いに気に入らない者同士が一緒に住むというのは、地獄のようなものだからです。互いに愛し合うからこそ一緒に住みたくなるのです。イエス様が現れて下さることが「一緒に住む」ということであるならば、イエス様が現れて下さるのには、この愛の関係が成り立っていなければなりません。つまり、イエス様を愛し、イエス様に出会いたい、と切実に願う者のところにイエス様は現れて下さる、ということでしょう。世にイエス様がご自分を現すことが出来ないのは、世がイエス様のことを受け入れず、愛していないからなのです。こうしてイエス様は、今日の御言葉で、何故、世にはご自分を現さないのか、何故、弟子たちだけにイエス様のことが分かるのかを説明されたのでした。

 確かに説明はそうなのですが、果たしてこの答えでユダは満足したのでしょうか。また私たちは、この答えで満足するのでしょうか。私は、この箇所を読みながら、正直言って、そういう印象を抱きました。このユダの質問は、悲しみながらの質問です。説明を受けて、理由が分かったなら、それで満足するものではありません。「どうして世にあなたは現れて下さらないのですか?どうして世の人々はあなたのことが分からないのでしょうか?!」これは理由が知りたいのではなくて、ただただ悲しいのです。彼は、この悲しみをイエス様にまっすぐに訴えたのでした。

 しかし、今日のイエス様のお答えは、ただ理由を述べているだけではなくて、本当は、そういう私たちに対する慰めの言葉でもあったのです。ここでイエス様は、この私たちの悲しみを慰めて余りある恵みを示して下さいました。「父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。」「あなたは悲しんで質問しているのかもしれない。けれども、そういうあなたのところへ私は父なる神様と一緒に行って住む。このことを心にしっかりと刻むように!」と主は慰めて下さったのです。これはまるで天国にいるかのようなお言葉ですね。この天国での喜びについて、同じヨハネの名前を持つヨハネの黙示録21章のところには、このように言われています。「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」(ヨハネの黙示録21章3節,4節)。

 「神様が一緒に住んで下さる天国で、神様は私たちの目から涙をことごとくぬぐい取って下さる」と言うのです。これは、大変に麗しい天国の姿ではないかと思います。けれども、この天国の恵みは、何も天国に行った時に初めて経験することではありません。今日の箇所でイエス様は、「今日という日に、父なる神様とイエス様は私たちのところにやって来て、一緒に住む!」と約束して下さいました。天国に行ったなら涙が拭われるというのではなくて、この地上でイエス様が一緒に住んで下さる時に、イエス様が毎日、私たちの目の涙をぬぐい取って下さるのです。私たちは、この深い慰めを、もう既に、この礼拝の中で味わっているのではないかと思います。

 「イエス様が現れて下さる時に味わう、この恵みを、どうして家族や友人は分かってくれないのだろうか?」これは本当に深い悲しみです。けれども、そのように悲しんで質問する者に向かって、「私はあなたと一緒に住む。私が一緒にいるではないか。その悲しみの涙も、私が拭ってあげよう!」と主は約束して下さるのです。天国ではありませんから、全部の涙が拭われ、何の悲しみもなくなるわけではありません。けれども、涙が流れる度に、一緒にいて下さる神様が私たちの涙を拭い取って下さいます。これが今日の箇所でイエス様が私たちの心に刻もうとなさった、もう一つの事柄でした。

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