日曜朝の礼拝「孤児(みなとご)にはしておかない」

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孤児(みなとご)にはしておかない

日付
説教
吉田謙 牧師
18 わたしは、あなたがたを孤児にはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
ヨハネによる福音書 14章18節-21節

 今読んでいる14章は、イエス様が十字架に掛けられる前の夜に、弟子たちに向かって語られた説教、いわゆる遺言説教に当たります。今日の箇所でイエス様は、ご自分が十字架の上で死んだ後、復活なさって、再び弟子たちのもとに戻って来られることを約束なさいました。このことをイエス様は、今日の18節の最初のところで、このように語られたのです。「わたしは、あなたがたを孤児にはしておかない。」これは本当に心引かれる御言葉ではないかと思います。この御言葉によると、イエス様のもとを離れる時に、私たちは孤児になるのです。今は家庭崩壊が深刻になっていますから、必ずしも正常な親子関係が保たれているとは限りません。けれども、本来、親というのは、子供の出来不出来にかかわらず、ただただ愛するものでしょう。我が子であるというだけで愛おしい、存在そのものが愛おしい、これが本来の親の姿ではないかと思います。

 もう既に十年ほど前に亡くなられた方ですが、五代目の三遊亭円楽という落語家がいました。以前、この方がテレビの番組で、若い頃の思い出話をしておられたことがあります。まだ彼が落語家としてデビューして間もない頃の話です。寄席で語っても語っても、全く客の反応が返ってこない。もう自分には才能がないのではないか、落語家には向いていないのではないかと思い詰めて、「もう落語家は止めた!」と決心したことがあったそうです。そこで故郷に帰り、母親にそのことを打ち明けました。すると母親は、「そんなに嫌なら仕方がない。でも最後に私の前で一席語ってくれないか!」と懇願されたそうです。円楽さんは、自分としては納得のいかない話でしたが、母親があまりにせがむものですから、最後の一席と思って語りました。そして語り終わった時に、聞いていた母親が、深く溜息をつきながら、こう言ってくれたそうです。「あぁ、お前は名人だねえ」と。「この母親の一言が、自分の人生を変えた!今の自分があるのは、この母親のお陰だ!」と円楽さんは、涙ぐみながら語っておられました。これが本来の親の姿でしょう。そして孤児になるというのは、そういう愛を失うことなのです。

 今までイエス様と共に歩んできた弟子たちにとって、イエス様の愛は、この親のような愛ではなかったかと思います。ですから、このイエス様がいなくなることは、弟子たちにとって、孤児になることを意味していたのです。イエス様は全く無条件の愛で弟子たちを愛されました。弟子たちがどんなに物わかりが悪くても、裏切りをはらんでいても、この弟子たちを最後の最後まで愛し抜かれたのです。この遺言説教の冒頭、13章1節のところで、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と言われていました。イエス様は、弟子たちのことを、「世にいる弟子たち」と言われました。様々な失敗を繰り返し、色んな欠点がある「世にいる弟子たち」です。けれども、この弟子たちを愛し、この上なく愛し抜かれた、と言うのです。要するに十字架の愛で愛し抜かれた、ということでしょう。「私の命と引き替えにしてでも、あなたを救いたい!」そういう命がけの愛で主は弟子たちを愛し抜いて下さったのでした。このイエス様が去られる時に、弟子たちは孤児になってしまったのです。

 私たちは、この愛を人間の中に見出そうとする時に、しばしば孤独を味わうことがあります。愛する者と死別することが起こります。死に別れなくても、ある時に気持ちがすれ違うこともあります。時には裏切られてしまうこともある。また、この愛に満たされない孤独な思いを、私たちは、地位や名誉、その他、色んなものでごまかそうとします。けれども、それは所詮、無駄な抵抗ではないかと思います。たとえどんなに頭がよくて、成績もよく、仕事も出来、色んな栄誉を手に入れたとしても、決して愛に対する飢え渇きを満たすことは出来ません。

 私は、今日の御言葉を思い巡らす中で、この孤児の寂しさを痛烈に感じながら、必死で藻掻いておられた方のことを思い起こしました。この方の口癖は、「私には信仰のことはあまり分かりません。私の信仰は全然なっていません。」こういう言葉でした。実際に関東に住んでおられた頃は、所属していた教会が遠くて、また日曜日にも、ご主人が開業しておられた診療所が開いていたということもあり、教会の礼拝にはあまり出席できなかったようです。おそらく、自分の意志で真剣に教会に通い始められたのは、私たちの教会に移られてからではないかと思います。聞くところによると、彼女のご主人は本当に信仰深かったようです。おそらく彼女は、そのご主人の背中を見ながら、ご主人を通して神様を知ったのではないかと思います。ご主人についていけば間違いない。そう思って、自分からはあまり積極的に信仰に関わることがなかったようです。彼女はご主人が大好きで、ご主人が天に召されてからも、「パパ、パパ」とまるで生きているかのように語りかけておられました。立派な娘さんが二人。お孫さんが六人。本当に温かい家族に支えられた方でした。お茶の先生で、お弟子さんも沢山おられました。歌いや踊り、お花、人間国宝の方をバックにしながら舞台で踊るような、非常に才能溢れた方でした。けれども、それらはいつまでも続くものではありません。彼女は、過去の栄光を胸に、その一つ一つを涙をこらえながら手放していかれたのです。彼女は本当に寂しい思いをしておられたと思います。特に、ご主人が天に召されてからは、抜け殻のようになってしまい、ほとんど寝込んでおられたと聞いています。大阪に転居してこられてからは、随分と元気を取り戻してこられましたが、肝臓を患い、再び寝込んでしまわれてからは、「早くパパのもとに行きたい!パパのもとに帰りたい!」とつぶやくばかりで、本当にふさぎ込んでしまわれたのです。私は、しばらく週に一回、彼女を訪問し、聖書のお話をしました。幸いなことに彼女は私を喜んで迎え入れてくれました。そして、そうこうしているうちに、彼女は少しずつ自分から真剣に神様のことを求めるようになっていったのです。「もっと生きたい、もっとこの神様のことを知りたい!」と彼女は私に打ち明けてくれました。この時、彼女はもう孤独ではなかったと思います。何故ならば、人間の愛では到底満たすことの出来ない、心にポッカリと空いた空洞を、神様の愛によって満たしていただいたからです。彼女は、大切なものを一つ一つ手放していかれましたが、最後の最後に最も大切なものを手に入れることが出来ました。彼女はもう孤児ではなくなったのです。こうして彼女は、イエス様と出会い、イエス様にしっかりと結びつけられて、平安の内に天に召されていったのでした。

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