日曜朝の礼拝「道・真理・命」

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道・真理・命

日付
説教
吉田謙 牧師
6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
ヨハネによる福音書 14章4節-11節

 直前の14章3節のところでイエス様は、ご自分の死の意味を説明されながら、「わたしはこれから天の父のもとに戻り、あなた方を天国に迎える準備をするのだ!」と告げられました。そしてそれに続けて今日の箇所の最初のところで、こうも言われたのです。4節。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」すると弟子のトマスが、すかさずこう尋ねました。5節。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」このトマスの問いに対して、イエス様は、あの有名なお言葉を語られたのです。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」と。

 まずイエス様は「わたしは道である」と言われました。「ここを直進し、あの角を右に回ったら天国に行くことが出来る」とその道順を教えて下さったのではなくて、「わたしが道である。わたしを信じ、わたしと共に歩むならば、わたし自身が道なのだから、あなた方は必ず天の父のもとに行くことが出来る。天国に行くことが出来る!」こう主は言われたのです。何故でしょうか。イエス様は、「わたしは真理であり、命である」と続けて言われました。イエス様が「天国に行く道であり、父なる神様のもとに行く道である」というのは、イエス様が真理であり、命だからなのです。

当時の人々にとって、この「真理」は、一つのあこがれのようなものでした。真理を知れば、この世界の本当の姿が分かる。真理を知れば、自分たちの本当の生き方が見えてくる。このように人々は考え、この真理にあこがれていたのです。今日の箇所の「真理」という言葉も、だいたいそういう意味として受け止めればよいでしょう。それを知れば今まで知らなかった世界の本当の姿、あるいは自分の本当の姿が見えてくるのです。それが真理です。イエス様は、ご自分がそういう真理なのだ、と言われたのでした。

 この真理であるイエス様のことを、もっとも良く言い表している御言葉は、やはり何と言ってもあの有名なヨハネによる福音書3章16節の御言葉ではないかと思います。今日は、礼拝の最初に「招きの言葉」として既にお読みいたしました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この御言葉です。神様は、ご自分の独り子をこの世に送り、十字架につけてでも、この世界を救いたい、と願われました。それほどまでに、この世を愛されたのです。十字架のイエス・キリストを見れば、そのことはよく分かります。そして、このことが分かってくれば、この世界の本当の姿、また私たちの本当の姿が見えてくるのです。そういう意味で主は、「わたしこそが真理なのだ!」と言われたのでした。

また、イエス様は続けてこうも言われました。「わたしは命である」と。この「命」というのは、「永遠の命」のことです。永遠の命、これは、ただ単に、ずっと続く命というだけの意味ではありません。本当に生きていることの素晴らしさが現れる命、この世の命とは全く質の違う命、本物の命という意味です。

 私たちは、どんな時に生きていることの素晴らしさを感じるでしょうか。美味しい物を食べる時や素晴らしい景色を眺める時に、あるいは音楽の音色に癒される時に、私たちは「本当に生きていてよかった!」と思えるのかもしれません。けれども、何よりも生きていることの素晴らしさを感じるのは、やはり愛を味わう時ではないかと思います。家族や友と心がふれ合う時に、私たちは生きていることの素晴らしさを痛感するのです。そして、その愛の中でも一番の愛、どんな時にも変わらない最高の愛が、イエス・キリストによって現された神様の愛なのです。この世のお互い同士の愛は、残年ながら移り変わることがあります。たとえ親しい仲であっても、家族であっても、私の全てを理解し、全てを受け入れてくれているわけではありません。逆に、あまりにも受け入れられてしまうと、本当に大丈夫なのだろうかと心配になることもあります。本当の私の姿を知った時に、この人たちはどう思うのだろうか、と心配になるのです。この世の愛は、私たちの全てを知り、それを受け入れているわけではありません。買いかぶりがあり、気がつかないことがあり、またその愛が冷めてしまうこともある。しかしイエス・キリストが十字架に示された神様の愛は、そういう愛とは違います。私たちのことを全部理解し、私たちの罪や汚れを全部知り、私たちの一番醜い部分を知りながらも、それでも、なお「愛する」と言って下さる。私たちの罪のために十字架に掛かって死ななければならない。それほどまでに、私たちには大きな大きな罪があるのです。それにもかかわらず、神様は私たちを、罪や汚れや弱さをもったまんまで抱きしめて下さる。受けとめて下さる。愛し抜いて下さるのです。この大きな大きな愛で愛され、そして、この大きな愛に突き動かされて、私たちもイエス様と神様が大好きになっていく。また私たちの内側に、この神様の愛が満ち溢れて、兄弟姉妹をも愛することが出来るようになっていくのです。こういう愛を味わう時に、私たちは生きていることの素晴らしさを、最も生き生きと味わうことが出来るのではないでしょうか。この命がもう今始まっていて、永遠に続くのです。これが永遠の命です。そしてイエス・キリストは、この永遠の命を私たちにもたらして下さるお方として、「私は道なのだ」と教えられたのでした。

 私たちは、明日、どのような道が開かれていくのか分かりません。特に困難な時には、いったいどうなってしまうのかと不安を覚えることもあるでしょう。あの時、この道を選ばなかったら、こんなに厳しい日々を送らずに済んだものを、と思うこともあるのかもしれません。けれども、私たちがイエス様を信じ、イエス様と共に生きているならば大丈夫です。たとえ色んなトラブルを抱え、右往左往し、辛く、苦しく、大きく回り道をしたとしても、イエス様を信じる者たちの歩む道は、必ず天の父なる神様の御許へと続く道なのです。

 イエス・キリストこそ、道であり、真理であり、命です。ここにしか私たちの救いはありません。

今週も、このイエス・キリストが示して下さった真理であり、命である道を、疑わずに信じ、希望をもって歩んで行きたいと思います。

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