日曜朝の礼拝「後でついて来ることになる」

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後でついて来ることになる

日付
説教
吉田謙 牧師
36 シモン・ペトロは言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスは答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」37 ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」
ヨハネによる福音書 13章36節-38節

 今日の箇所には、有名なペトロの裏切りの物語が記されています。「キリストに従いたい!」と願いつつも、やはり思うように従うことが出来ない、こういう悲しみは、おそらくペトロだけではなくて、ここにいる誰もが味わったことのある悲しみではないかと思います。ヨハネによる福音書は、この「キリストに従いたい」という願いを、「キリストと共にいたい」という願いとして言い表しています。前回お読みしたところでイエス様は、弟子たちに向かって、「あなたがたは私の行くところについて来ることが出来ない!」と言われました。そこでペトロは、今日の箇所で、「主よ、どこに行かれるのですか?!何故、今ついて行けないのですか?!私はついていきます!あなたのためなら私は命をも捨てる覚悟が出来ているのです。どうか、私を連れていって下さい。私から離れないで下さい。私とずっと一緒にいて下さい!」と言ったのです。このペトロの願いは、「どこまでもイエス様と一緒にいたい!」「離れたくない!」「共にいたい!」という願いです。私たちも、このペトロと同じ願いをもっているのではないでしょうか。「イエス様と共にいたい!」「イエス様から離れたくない!」こういう願いです。

 様々な苦しみや悲しみの中に置かれている方々のことを覚えて祈る時に、あるいは、そういう方々の家や病室を訪ねていく時に、まず私が一番願うことは、「イエス様がその方と一緒にいて下さるように!」 ということです。私自身は訪問しても、いつまでもそこに居続けることは出来ません。しばらくすれば帰らなければならないのです。顔と顔とを合わせてお話しをしている時には、まだ安心なのですが、いざ帰る段になると急に心配になります。この方は、この後、果たして大丈夫だろうか、一人でやっていけるのだろうか、と。本当に後ろ髪を引かれるような思いで帰らなければならないことがあるのです。そんな時には、本当に心から祈り願います。「どうか、キリストがこの方の病室に、あるいはこの方の部屋に共にいて下さるように」と。十字架に命をささげるほどに私たちのことを愛し抜いて下さったイエス・キリストが、あらゆる暗闇に打ち勝ち、ついには死の力にも勝利して下さいました。そのお方が私たちと共にいて下さるのです。そうであるならば、どんな暗闇の中にあっても大丈夫です。必ず慰められるはずです。あの人、この人のことだけではありません。今、 行き詰まりの中で喘いでいるこの私のところにキリストが共にいて下さるように、と祈る。これは私たちが日々祈っていることの中心ではないかと思います。

 ところが、このキリストと共にいるためには、キリストについて行かなければなりません。キリストに従わなければならないのです。そしてペトロが味わった深い悲しみは、自分にはこのキリストに従う力がない、ということでした。

ペトロは、「あなたの為なら命を捨てます!」と誓いました。決して口先だけではなくて、彼は真剣に、命を捨てる思いでイエス様に従いたい、と願っていたのです。けれども、結局ペトロは、キリストに従うことが出来ませんでした。何故でしょうか。「ペトロの信仰は、少々、自身過剰で、自分の弱さを知らず、傲慢であった。だからついていくことが出来なかったのだ!」とよく言われたりします。確かに、そういう面もなかったわけではありません。けれども、ペトロがイエス様に従えなかった理由として、今日の御言葉がはっきりと私たちに伝えているのは、決してそういうことではないのです。36節のところには、こう言われています。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」

 この「後でついて来ることになる」というのは、私が十字架について、復活し、天に昇ったならば、あなたは私についてくることが出来る、ということでしょう。イエス様はペトロに向かって、あなたがついて来れないのは、あなたの信仰がなってないからだ、とは言われませんでした。「あなたがついて来ることが出来ないのは、私に理由がある。私がまだ十字架につけられ、復活し、天に昇っていないから、あなたは今はついてくることが出来ない!」と主は言われたのです。しかし復活し、天に昇られたならば、主は聖霊をペトロに送られて、その後、ずっと霊において共にいて下さるお方となられます。その時になったならば、ペトロもついて来ることになる。「後でついて来ることになる」というのは、そういう意味なのです。

イエス様に従う、イエス様について行くというのは、例えていうならば、こういうことでしょう。イエス様が雪の中を、雪をかき分けかき分け進んで行かれます。私たちもイエス様と同じように、イエス様の横に並んで雪をかき分け進んでいくのかと言うと、決してそうではありません。イエス様について行くというのは、文字通りついて行くのです。イエス様が先立ち、懸命に血潮を流しながら打ち建てて下さったその道を、 私たちはただイエス様の背中を見ながら歩むだけでよいのです。私たちが本来なすべきことをイエス様が代わって全部成し遂げて下さいました。私たちが本来受けなければならない刑罰をイエス様が全部十字架の上で担って下さったのです。私たちは、そのイエス様が切り開いて下さった道を、ただイエス様の背中を見つめながら、ついていけばよいのです。時には、辛くて、苦しくて、悲しくて、真っ暗闇で、 イエス様の背中さえ見えないこともあるのかもしれません。イエス様はずっと一緒にいて下さると言ったではないか。どうして、私をお見捨てになったのか、と言いたいこともあるのかもしれない。けれどもイエス様は、私たちの信仰の有り様によって、近づいたり、遠のいたりするお方ではありません。ずっと変わることなく一緒にいて下さるお方です。どんなに真っ暗闇で、誰もこんなところには手が届かないと思えるような絶望の淵にあっても、イエス・キリストはそこで私を担っていて下さる。背負っていて下さる。支えていて下さる。聖霊を私たちに送り、どんなところであっても、霊において私たちと共にいて下さるのです。ただ私たちの方がそれに気づいていないだけなのです。

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