日曜朝の礼拝「互いに足を洗い合いなさい」

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互いに足を洗い合いなさい

日付
説教
吉田謙 牧師
12 「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
ヨハネによる福音書 13章12節-20節

 弟子たちの足を洗い終えられたイエス様は、再び上着を着て、この晩餐の席につかれました。そして、今ご自分がなさったことの意味を、弟子たちに伝えられたのです。イエス様は、弟子たち一人ひとりの足を洗い、奴隷のようにして弟子たちに仕えて下さった後で、「これを模範としなさい!」と教えられました。ですから、この時、弟子たちは、このことを「あなた方はお互いに奴隷のようにして仕え合うように」と受け止めたのでしょう。勿論、イエス様は、当面はそういう意味として伝えられたのだと思います。しかし、この「弟子の足を洗う」という物語は、深い意味としては、イエス様の十字架による罪の洗い、極みまで愛するという究極の愛、イエス様の十字架の愛がその根底にあることを先週お話ししました。ですから、この物語は、ただイエス様の謙遜の模範が教えられているだけではなくて、そこにはイエス様の十字架の愛を模範とするように、という意味も込められていたのです。

 イエス様が弟子たちの足を洗われたのは、イエス様が命を注ぎ込むような仕方で弟子たちを愛し抜かれた、即ち、この上もない愛、十字架の愛で弟子たちを愛し抜かれたことを象徴的に表していました。「このような愛で私はあなた方を愛したのだから、あなた方も互いにこの愛で愛し合うように!」これは、とても重い言葉ではないかと思います。イエス様の十字架の愛と私たちの愛とを比べる時に、それは、たとえマザー・テレサのような世界的に有名な愛の人であったとしても、「私はイエス様の模範通りに愛しました!」とは到底言えません。けれども、ヨハネはその手紙の中で、こうも言っています。「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。」(ヨハネの手紙一3章14節)。

 ヨハネは、手紙の宛先であるヨハネの教会に対して、「私たちは自分たちが死から命へ移っていることを知っている。永遠の命をいただいていることを知っている。それがどうして分かるのかというと、兄弟を愛しているからだ。」と言いました。私たちの兄弟愛は、イエス様の十字架の愛に比べたならば、本当に恥じ入る他はない、欠けだらけの愛でしょう。けれども、全く兄弟愛がゼロなのかと言うと、決してそうではありません。キリストの十字架の恵みによって、私たちの内にも、既にこの兄弟を愛する愛は始まっているのです。そういうことから言うならば、イエス様が足を洗われたのは、ただの模範というだけではなくて、将に教会をそのような愛へと突き動かす力であった、ということです。事実、この教会の中にも、この愛は既に始まっています。私がある方のお宅を訪問した時に、こういう話を聞きました。「ある姉妹から、こんな嬉しい励ましの手紙をいただきました!」「落ち込んでいる時に、ある姉妹から電話をいただき、とても元気をいただきました!」と。私は、これに似たような話を、色んな場面でよく耳にするのです。まだ命を捨てるほどに愛することは出来ません。けれども、兄弟姉妹のために、貴重な自分の時間をさいて仕えるのです。まだ命を捨てるほどに深い憐れみに生きることは出来ません。けれども、自分の出来る範囲で、悲しみを共にし、祈るのです。まだ命を捨てるほどに仕えることは出来ません。しかし、私たちはイエス・キリストの十字架の愛を知りましたから、その方のために、なすべきことを、たとえ小さな事であっても始めるのです。そして、この愛は、私たちがこの地上の生涯を閉じる時まで成長し続けていくはずです。私たちの愛は、イエス様の十字架の愛に比べたならば、本当にちっぽけな愛でしかありません。けれども私たちは、小さなことから始めて、やがて天国ではイエス様そっくりの人間に変えられて、「ほら、この通り、私は兄弟姉妹をこんなにも愛しています!」と本当に胸を張って言うことができるはずです。

 ヨハネはその手紙の中で、こうも言いました。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。」(ヨハネの手紙一3章2節)。

 「天国に行った時に、私たちがどうなるのかは分からない。けれども、ただ一つ言えることがある。それは、イエス様そっくりの人間になることだ!」とヨハネは言いました。やがて、この地上の生涯を終える時に、私たちはイエス様そっくりの人間に変えられている、と言うのです。このことさえ分かれば、もうそれだけで十分ではないでしょうか。この天国への希望の旅路の中で、私たちは、互いに足を洗い合いたいと思います。何も皆がビックリ仰天するようなことをする必要はありません。あの人がしているから私もしなければならない、そんなことでもない。与えられた賜物も、置かれた環境も、信仰の成長段階も皆それぞれ違うのですから、それぞれの仕方で仕えればよいのです。

 私は、牧師として、あの人のこと、この人のこと、と気に掛かっていることが沢山あります。訪問しなければならない方々、手助けを必要としている方々、悲しみや悩みを聞いて、共に祈らなければならない方々が、本当に大勢いらっしゃいます。けれども残年ながら、私はスーパーマンではありませんから、気に掛かりつつも、多くのことが出来ずじまいのまま、というのが正直なところです。勿論、出来る限りのことはしたいと願っています。しかし、まず何よりも牧師である私の務めは、群れの代表として兄弟姉妹のことを覚えて祈ること、そして日曜日のこの礼拝の説教を通して、兄弟姉妹の飢え渇きを満たすことである、と受け止めています。私は、これからも、こういう仕方で兄弟姉妹に仕えていきたいと願っています。しかし、これは、あくまでも私の仕え方であって、皆さんには、一人一人また固有の仕え方があることでしょう。どうか一人一人、無理のない仕方でその仕え方を模索していただきたいと思います。

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