日曜朝の礼拝「主イエスの叫び」

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主イエスの叫び

日付
説教
吉田謙 牧師
47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。・・・ 50 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。
ヨハネによる福音書 12章44節-50節

イエス様は、罪人である私たちを裁くためではなく、救うためにこの世に来て下さいました。ここで私たちがしっかりと受け止めなければならないことは、父なる神様と独り子であるイエス様は、本来、私たちを裁くことができるお方なのだ、ということです。この世界を造り、私たちに命をお与えになった神様は、私たちが神様を信じようとせず、背き、逆らっているならば、本来、その罪を裁き、私たちを滅ぼすことができるお方なのです。ですから、「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者」、即ち、イエス様の御言葉を受け入れず、信じて従おうとしない罪人は、本来、神様によって裁かれ、滅ぼし尽くされても、何も文句が言えない存在なのです。それにも関わらず神様は、そういう罪人を救うために、御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。何という幸いでしょうか。

 また父なる神様の命令は永遠の命である、と言われています。この「永遠の命」というのは、いつまでも終わらない命というだけではなくて、充実した命、本物の命という気持ちが込められている言葉です。生きていることの素晴らしさを、本当に生き生きと味わえるような命。喜びに満ち溢れている命。この命が永遠に続くのです。これが「永遠の命」です。以前にもお話ししましたように、このヨハネによる福音書における「永遠の命」を、一言で言い換えるならば、結局は「神様の愛」という言葉に集約できるのではないかと思います。

 人を愛する時に、私たちは時々その喜びが途絶えることを経験します。愛していたのに裏切られてしまった、愛していたのに死別してしまったという具合に、この喜びは色んな仕方で途切れることがあるのです。しかし神様に愛され、神様を愛する喜びは、決して途切れることがありません。たとえ私たちが死んだとしても、この神様の愛は、その死を突き抜けて私たちに届いてくるのです。こうしてこの神様の愛を知り、この神様の愛を受けとる時に、私たちは今という時に永遠の命に生き始めることが出来るのです。

 また、この50節のところで「命令」と訳されている言葉は、他の箇所では「掟」と訳されている言葉です。例えば、少し後の13章34節のところに、こういう御言葉があります。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

 ここでの「掟」という言葉が、50節の「命令」という言葉と同じ言葉なのです。この神様の掟、神様の命令も、常に神様の愛と結びついています。そして、その愛の中心は、イエス・キリストの十字架と復活の出来事なのです。この十字架と復活の出来事を通して示された神様の凄まじいまでの愛を知り、その愛を受け取り、その愛の中を生き始める時に、私たちは、既に永遠の命に生き始めている、と言えるのではないでしょうか。

この福音書の中心的な3章16節の御言葉においては、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と言われていました。独り子を十字架に犠牲にするほどまでに、神様は私たちのことを愛しておられます。この神様の愛を鮮やかに現されるイエス様を信じ、イエス様に従う者たちに、神様は永遠の命を与えて下さいます。これが神様の御心です。そして、この神様の御心は、途中で挫折することはありません。必ず実現します。今はまだその完成途上にありますから、「あなた方は永遠の命に生きるように!そのために神様を愛し、隣人を愛して生きるように」という掟や命令の言葉として語られます。けれども、これは私たちの力で勝ち取るものではありません。これは神様の御心であり、神様がそのように望んでおられることですから、やがて必ず実現するのです。「わたしはあなたを裁かない。決して見捨てない。必ず永遠の命に生かす!」これが神様の約束なのです。私たちの内側を見つめる時に、こんな私が本当に救われるのだろうか、と不安になることもあるでしょう。けれども、そんな不甲斐ない私たちを救うためにこそ、イエス様は十字架の上で死んで下さいました。「そんなあなたを救うために、私の十字架はあった!」と言って下さるのです。私たちは、このイエス様の十字架の恵みを、常に心に刻んでおかなければなりません。

 私たちは、どんな状況の中にあっても、確かに神様に愛され、神様に祝福されています。既に永遠の命に生き始めているのです。けれども、それはまだ完成していませんから、しばしばサタンの仕業によって、色んな問題が引き起こされ、そのことが見えなくなってしまうことがあります。けれども、神様が一端、永遠の命に生かす、と約束してくださったことは、どんなことがあっても必ず実現します。ですから私たちは、絶えず御言葉の光に照らされて、罪の赦しの恵みと永遠の命の希望を、繰り返し受け取り直す必要があるのです。

 雑草は抜いても抜いてもまた生えてきます。せっかく綺麗な花が咲いても、草ボウボウになってしまったならば、その綺麗な花は見えません。それと同じように、サタンは、次から次へと色んな問題を引き起こし、神様の愛が見えなくなるように、ありとあらゆる画策をするのです。草取りの極意は、まだ出て来たばかりの時に摘んでしまうことだそうです。私たちも、日々、聖書の御言葉に聞き、祈ることによって、サタンの画策を日々丹念に取り除き、神様に愛されていることを、そして自分の人生が神様の祝福のもとにあることを受け取り直したいと思います。そして、どんな苦難の中にあっても、神様の愛の御手の中にあることを信じ、諦めることなく、希望をもって生きていきたいと思います。

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