日曜朝の礼拝「一粒の麦」

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一粒の麦

日付
説教
吉田謙 牧師
24 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。・・・
26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。。
ヨハネによる福音書 12章20節-26節

 これは、イエス様の救いの御業を、麦の栽培に譬えて語られたお言葉です。畑に落ちた一粒の麦の種が死ぬというのは、麦粒としての姿を失い、そこから芽が出て、育っていくことを言い表しています。そうやって蒔かれた時の一粒の姿がどこにも見出せないことを、ここでは「死ぬ」と言い表されているのです。要するにこの譬えは、イエス様が十字架に架けられて死ぬことを指し示しています。種の場合は、実際に死ぬわけではありません。ただかたちを変えるだけです。しかしイエス様の場合は、実際に十字架に架かって死ぬことによって、多くの人々の救いが実現することになるのです。

そうやってイエス様の救いにあずかった者たちは、イエス様に仕え、その人もイエス様のように一粒の麦として生きていくことになります。その歩みが26節のところに言い表されています。ここで言う「父はその人を大切にしてくださる」という言葉は、「父はその人を尊敬する」とも訳すことが出来る言葉です。それほどまでに神様は私たちのことを重んじ、尊んで下さる、「宝物だ」と言って下さる、と言うのです。

 仕えるというのは、本当に難しいことですね。私たちは、人に仕えている時でさえ、こんなに献身的に仕えているのだから、この姿をなんとか人にも知ってもらいたいと心のどこかで願っているのではないでしょうか。「本当に立派ですね。感心ですね。なかなかそんなことは出来ませんよ!」と言ってもらいたいのです。しかしそれは、その人のために仕えているのではなくて、本当は自分の誉れのために仕えているのではないかと思います。

 中国のある殉教者が残した詩があります。残したと言っても、この詩は誰かに読んでもらうために書かれたものではありません。その方が殉教の死を遂げて、親しい者がその方の家を整理していた時に、たまたま見つけたものだそうです。それは新聞紙の片隅にメモ書きのようにして書かれていた、と言います。おそらく自分自身に言い聞かせるようにして書いた詩ではないでしょうか。こういう詩です。

「本当の主の働きというのは、命が流れ出てくるようなもの。奉仕と言えるようなものがあるとすれば、それは、キリストが生き生きと現れ出てくる、そういうものだ。自分自身を神に献げるということは、神のために何かの働きをすることではない。神ご自身に働いていただくこと。すべて、神様に働いていただくのでなければ、それは神のために働きが出来ているとは言えない。神よ。私を、神を愛する者にして下さい。そして、人からの感動や敬意を受けることがありませんように。神よ。私に仕えさせて下さい。でも、そのために賞賛を受けてしまうことがありませんように。神よ。私に力を尽くさせて下さい。でも、覚えられることがありませんように。神よ。あなたのために、苦しみを受けるものとさせて下さい。でも、人に見られませんように。」こういう詩です。彼は、文字通り、この詩の通り生き抜きました。そして最後にはイエス様のために苦しみを受け、殉教の死を遂げていったのです。なぜ彼にはこういう生き方が出来たのでしょうか。

それは単純なことです。イエス様が他でもない私のために死んで下さった、そのことをぼんやりと受けとめていたのではなくて、本気で受けとめていたからです。こんな罪深い自分を救うために、イエス様は命を捨てて下さった。そのことを真剣に受けとめているならば、たとえ周りの状況がどうであろうと、自分に出来る精一杯の仕方でイエス様にお仕えしたいと思う。これは当然のことではないかと思います。ではイエス様に真実に仕えるためには、いったいどうすればよいのでしょうか。

 多くの貧しい人々に献身的に仕えた愛の人マザー・テレサは、ある時、こう言いました。「私たちにはキリストが見えませんから、私たちの愛をキリストに言い表すことは出来ません。でも私たちの隣人なら見えます。だからキリストにしてさしあげたいと願っていることを隣人にしてあげましょう。」これはマザー・テレサの勝手な考えではありません。そうではなくて、聖書がちゃんと教えていることなのです。マタイによる福音書25章31節以下のところでイエス様は、貧しい人や病気の人、牢獄に入っている人や裸でいる人、そういう人々のために仕えたならば、それは他でもない私にしてくれたことなのだ、と教えておられます。ですから、マザー・テレサにしても、また先程の中国の殉教者にしても、救われた喜びに満ち溢れて、本当に心からイエス様に感謝し、仕える思いで人々に仕えていたのではないかと思います。

 イエス様は、今日の箇所で、一粒の麦となる道を教えられました。しかし、私たちにはそんなことは出来ません。やはり私たちは、誰からも認められないような仕方で仕えることは出来ないのです。イエス様の十字架の歩みは、人々から見捨てられ、頼りにしていた弟子たちからも見捨てられ、最後には神様からも見捨てられてしまう、そういう本当に孤独な歩みでした。しかし、私たちは、もうそんな孤独な歩みをする必要はないのです。人からは評価されないのかもしれません。けれども、誰が見ていようが見ていまいが、一粒の麦のようにして仕えて生きるならば、「わたしのいるところに、あなたもいることになる」と主は励まして下さいます。私たちの救いのために一粒の麦となって十字架の上で死んで下さったお方が、罪と死の力に打ち勝ち、私たちと共にいて下さるのです。共に労苦し、共に涙し、共に戦って下さる。「恐れるな。私が共にいるではないか」と励まして下さるのです。またそれに加えて、そんな私たちのことを父なる神様は本当に重んじ、「宝物だ」と言って下さいます。もうこれで十分ではないでしょうか。

年老いて、もう人のために何もすることが出来ないと嘆かれる方がいらっしゃいます。しかし、私たちには祈ることが出来ます。教会のために、また困難の中にある兄弟姉妹方のために、あるいは戦火の中にあるウクライナのために、世界中の飢餓で苦しむ人々のために、どうか祈っていただきたいと思います。祈ることは、それに時間を使うことです。誰かのために祈る時に、それは誰かのために自分の時間を使い、自分の命を削っているのと同じことなのです。そして、それこそが愛ではないでしょうか。そうやってクリスチャンとして誠実に最後の最後まで生き抜く時に、私たちも一粒の麦となって死ぬことが出来ます。そして、主はそのようにして生きた者たちと共にいてくださり、また神様はそのような者たちのことを「宝物だ」と言って下さるのです。

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