日曜朝の礼拝「ナルドの香油」

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ナルドの香油

日付
説教
吉田謙 牧師
7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
ヨハネによる福音書 12章1節-11節

 十字架を前にしたイエス・キリストに、マリアという女性が感謝と献身のしるしとしてナルドの香油を注ぎました。この時、マリアがイエス様に注いだ香油の分量は一リトラであり、それをお金に換算すると三百デナリオンほどになった、とここでは言われています。この三百デナリオンというのは、当時、ほぼ労働者の一年分の給料に相当しました。また、この一リトラというのは、新共同訳聖書の巻末にある度量衡の表を見ると、約326グラムであったことが分かります。通常、香油を香水のようにして使う場合、この326グラムというのは、一人の人に一度に使うには桁外れに多い分量ではないかと思います。マリアは、この一リトラのナルドの香油をを、全部イエス様に注ぎ尽くした、と言われているのです。それを見ていたイエス様の弟子であるユダは、マリアにこう言い寄りました。5節。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」

 この言葉を語ったのは弟子のユダであった、と書いているのはヨハネによる福音書だけです。どうしてヨハネはこれをユダの言葉として伝えたかったのでしょうか。それは、この言葉の中に、イエス様を裏切る危険な思いが潜んでいることを伝えたかったからです。イエス様はユダに答えて、こう言われました。

8節。「貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。」

 貧しい人々に仕えることが悪いわけではありません。そうではなくて、イエス様に向かって直接に献身と感謝を表さなければならない大切な時がある、それを見失ってはならない、ということでしょう。もし、私たちが様々な事柄に気を取られて、そういうイエス様に直接に仕える時の大切さを見失ってしまったならば、これはユダと同じです。それは裏切りへの第一歩なのです。

 イエス様は、別の時に、弱く虐げられている人々に尽くしたクリスチャンに向かって、このように言われました。「この最も小さな者の一人にしたのは私にしたことである。」マタイによる福音書25章40節の御言葉です。貧しい人や病気の人、牢獄に入っている人や裸でいる人、そういう人々のために尽くしたならば、それは私にしてくれたことなのだ、と主は言われるのです。つまり、人に尽くすことによってイエス様に尽くす道もある、ということでしょう。この道を全く通らないならば、イエス様は「あなたは私に何にもしてくれなかった!」と言われます。これがマタイによる福音書25章で教えられていることなのです。私たちには、それぞれに私たちの働きを必要としている人々が必ずいると思います。訪ねていき、励まさなければならない友人がいます。あるいは、家族の中に具体的なお世話を必要としている人がいます。あるいは祈らなければならない友人や家族がいる。そういう私たちの助けを必要としている人々に対するお世話について、イエス様は、「それは私にしてくれたことなのだ」と言われます。また、そういうことを無視するならば、「あなたは私に何もしてくれなかった!」と主は言われるのです。

 けれども、まず私たちは、この貧しい人々ではなくて、直接、イエス様に感謝と献身を表すように、とやはり招かれているのではないかと思います。このことを忘れてしまったならば、私たちはやがてイエス様から離れてしまうことになるでしょう。この礼拝の時がいい例です。日曜日のこの時間に、私たちはここに集まり、ただ神様とイエス様に向かって献身と感謝と賛美を表しています。この一時間半という時間を礼拝のために用いるのではなくて、ここに集まった私たちみんながどこかに出かけて行き、ボランティアをしたならば、随分と社会に貢献できるのではないかと思います。世間の人々は、「何故、そうしないのか」「何故、あなた方は、そんな無駄なことを毎週毎週繰り返すのか?!」と言うのかもしれません。けれども、ヨハネによると、これはユダの言葉なのです。あるいは、私たちの日々の生活で祈り、聖書を読む時間があります。神様とイエス様に向かって、ただひたすらにお仕えする時間です。「そんな時間を使うのは無駄ではないか。どうして戸を閉じて、自分の部屋に入ってしまうのか。あなたのやるべきことはもっと他にあるのではないか。もっと子供と遊んでくれればいいのに!もっと家事に専念してくれればいいのに!」こういう批判の言葉を私たちはよく聞くのです。私たち自身も、働きのことを優先し、「家では聖書を読む時間がありません」「お祈りをする時間もありません」とよく言うのです。勿論、どうしようもないことも時にはあるでしょう。けれども、そういう言葉の多くがこのユダの言葉と同じである、ということを私たちはしっかりと覚えておかなければなりません。

 「これだけ捧げることが出来るならば、もっと人のために豊かに用いることが出来るのではないか?!」この批判に対して、イエス様はマリアを守られました。「貧しい人々はいつも一緒にいるが、私に向かって直接に献身と感謝を表さなければならない大切な時がある。マリアはその大切な時を重んじただけだ!」と。イエス様だけに捧げる時間、それはイエス様を知らない人にとっては愚かに見える時間なのかもしれません。クリスチャンであっても、そういう時間を大切にせず、もっと目に見える役に立つことをしたい、という思いにかられることがあります。しかし、結局それは、私たちが人に仕える力さえも失っていく第一歩なのです。神様にお祈りをしたから、沢山の時間をそのために費やしたから、その人の生涯は人に仕える生涯ではなくなった。こんな話は未だかつて聞いたことがありません。しかし、その反対のことはよく聞くのです。信仰を失った人が自分のためだけに生きている、と。

 多くの方々のために献身的に仕えたクリスチャンは、みんな礼拝の時を一所懸命に守る人たちでした。皆さんよくご存じのマザー・テレサという人は、貧しく、虐げられている人々のために本当に沢山の働きをされた方です。しかし彼女にとって一番大切な時間は、祈りと礼拝の時間であったと語っておられます。「神様の前に出ている時間が私の力である」と彼女は知っていたのです。私たちも、礼拝の時間を削ることによって、あるいは祈り、聖書を読む時間を削ることによって、家族や友人に仕えるのではなくて、まず一番大切な時間を取り分けて、イエス様にお仕えしていきたいと思います。

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