日曜朝の礼拝「憤り、涙を流されるキリスト」

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憤り、涙を流されるキリスト

日付
説教
吉田謙 牧師
33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください]と言った。35 イエスは涙を流された。
ヨハネによる福音書 11章28節-37節

 この場面は、死んだラザロを思い、ラザロの姉妹マリアと人々が涙にくれている場面です。ここでイエス様は、「心に憤りを覚えられ」、「涙を流された」と言われています。イエス様は何に対して憤られたのでしょうか。一つの解釈は、泣き悲しむマリアと人々の不信仰に対して憤られた、という解釈です。「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者は決して死なない。」と語られるイエス様を目の前にしながら、望みのない人間のように涙にくれている。そういう不信仰に向かってイエス様は憤られた、と言うのです。しかし、この「憤る」と翻訳された言葉は、もともとは「馬が鼻を鳴らす」という言葉です。そのことから「激しく怒る」「憤怒する」という意味で用いられるようになりました。息を荒げるようなとても激しい感情を言い表す言葉です。イエス様が、愛する者が死んで涙している人々に向かって、そんなに激しく憤られるというのは、どう考えて見ても不自然です。

 聖書の中には、愛する者の死を深く悲しんだ多くの信仰者の姿が描かれています。しかもそれは信仰者の失敗として描かれているのではありません。旧約聖書の中で信仰者の代表と言えば、やはりアブラハムでしょう。アブラハムは、妻のサラが百二十七歳という天寿を全うして死んだ時に、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ、と旧約聖書は伝えています。創世記23章2節です。旧約の時代だけではありません。復活のイエス・キリストを知っていた新約時代の信仰者も同じでした。教会の最初の殉教者ステファノは、天を見上げながら、「天が開いて、主イエスが神の右に立っておられるのが見える」と喜びの声を上げながら、殉教の死を遂げました。誰が見ても、「彼は天国に行った」と思えるような見事な死に様です。けれども、このステファノが、このような見事な死を遂げた時にも、信仰者の心には悲しみが起こったのでした。使徒言行録8章2節によると、「信仰深い人々がステファノを葬り、彼のこと思って大変悲しんだ」と言われているのです。ステファノは、まっすぐに天国に上っていったような人でした。しかし、教会の人々は、あの人は天国に行ったのだから、悲しみを忘れて喜ぼう、とは言わなかったのです。信仰深い人々が大変に悲しんだ、と言うのです。信仰が深くても、大変に悲しむことは起こるんですね。そして、聖書はそういう人々が不信仰である、とは言わないのです。ですから、イエス様の憤りがマリアと人々の不信仰に向けられているというこの理解は、少々無理があるのではないかと私は思います。

 それでは、キリストの憤りは何に向けられたのでしょうか。それはマリアと人々にこのような悲しみをもたらした「死の力」に対してでありましょう。これも古くから言われている伝統的な解釈です。死の力が猛威を振るい、自分の弟子たちの内にさえ深い悲しみが起こっているのです。このように人間の内に力を振るう「死」に対して、イエス様は憤られたのでした。そして、その「死の力」に捕らえられている愛する者たちのために、イエス様は涙を流されたのです。

 「キリストを信じる者は死んでも生きる。」これは真実です。けれども、死の力はまだ全く無害になったわけではありません。死の力はイエス様を信じる者には絶望を与えることはないにしても、なお悲しみや痛みをもたらすものなのです。

 使徒パウロは、神様の救いのご計画全体を見渡しながら、一番最後に起こる勝利のことを書きました。やがて世の終わりに神様が神様の敵となるものを全て滅ぼし尽くされる時に、「最後の敵として死が滅ぼされます。」と。コリントの信徒への手紙一15章26節の御言葉です。「最後の敵として死が滅ぼされる。」確かにイエス様を信じる者は死んでも生きるのです。既に「死」は骨抜きにされています。しかしながら、まだ「死」は私たちの敵であり、「死」がキリストを信じる者の心をも痛めつけ、誘惑や試練や悲しみを私たちにもたらしていることも事実です。キリストご自身も「死の力」に対して激しく憤り、死んだ人のために涙を流されました。これは死を仕方がないこととして、諦めて生きる生き方とは全く正反対の行動です。「死」は神様にとっても、忌まわしいもの、滅ぼし尽くされるべきもの、最大の敵なのです。この死の現実がある限り、キリストは憤り、涙を流されます。そして、このラザロの甦りの出来事は、やがてキリストが世の終わりに死の力を完全に打ち破り、私たちの目の涙をことごとくぬぐい取り、もはや死もなく、悲しみも嘆きも労苦もない、そういう天国の幸福をもたらして下さることを指し示す「しるし」であり、その先取りでした。こうして死の問題は、やがて終わりの日に、キリストによって完全に解決されることが約束されているのです。

 私たちが悲しみや痛みの中で、傷を負い、呻き苦しんでいる時に、本当に慰め、癒してくれるのは、自ら傷を負う救い主をおいて他にありません。自分では傷を負わず、傷を負うところに身を置こうともしないで、高いところから相手を癒そう、治そうとしても、本当の意味では癒すことなど出来ないのです。私たちの負っている傷を、その痛みを、本当に身をもって体験したものでなければ、その心の奥深くにある傷には決して届かない。イエス・キリストは自ら傷を負い、私たちと同じ所まで降りてきて下さいました。私たちと同じ罪人の一人に数えられ、私たちが苦難の中で苦しむ以上に苦しみ、その痛みを味わい、私たちの罪を一手に担って下さったのです。しかも、ただ同じところに立ち、苦しみを共にして下さるだけではなくて、十字架の死に打ち勝ち、甦って下さったお方として、その傷を完全に癒すことの出来るお方として、私たちのところに来て下さったのでした。そのお方が、私たちの経験する、死を頂点とする多くの悲しみと多くの痛みに対して、憤り、涙して下さるのです。ですから私たちは、決して諦めることなく、この憤り、涙して下さるイエス・キリストに信頼し、世の終わりの救いの完成の時を諦めずに祈り待ちたいと思います。

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