日曜朝の礼拝「わたしは復活であり、命である」

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わたしは復活であり、命である

日付
説教
吉田謙 牧師
25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
ヨハネによる福音書 11章17節-27節

「わたしは復活であり、命である」とイエス様は言われました。私たちは、これまでに、これとよく似たイエス様のお言葉を何度か学んだことがあると思います。6章のところでイエス様は、「私は命のパンである」と言われました。8章のところでは、「私は世の光である」と言われました。またつい最近学んだ10章のところでは、「私は良い羊飼いである」と言われたのです。これらは全て同じ言い方です。そして、そういう言い方全てに共通して言えることは、終わりの日に起こるべきことが、今、このイエス・キリストを通して、現在のこととして、私たちの目の前にある、ということです。今日の箇所で言うならば、復活というのは、ただ単に、やがて私たちが迎える世の終わりに起こることではなくて、このことはもう既にイエス・キリストにおいて今や起ころうとしている、いやもう既に起こっているのだ、ということなのです。世の終わりの復活の時、それは神様が死の力を打ち破り、ご自分の愛する者たちを新しい命に呼び起こして下さる時です。けれどもイエス様は、「私は復活であり、命である」と言われました。「世の終わりに起こるこの出来事が、今、将に私の内に現れている!」と主は言われるのです。「死の力を打ち破って下さる神の力、復活の力は、今、目の前にいる私の内に現れている。あなたは私を通して、その復活の力を味わうことが出来るだろう!」と、ここでイエス様はマルタに宣言して下さったのでした。

 私たちは、かつてイエス様を知らず、イエス様を無視し、イエス様の愛を踏みにじって生きてきました。しかし、そんな私たちの姿を見つめながら、なおイエス様は「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と執り成し祈って下さいました。そして最後には「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?!」と大声で叫ばれながら、ただお一人、神様の怒りと呪いを全部引き受けて十字架の上で死んで下さったのです。しかも、ただ死んで終わりというのではなくて、主は死に打ち勝ち、甦って下さいました。そして、今も私たちを愛し、私たちと共に歩んで下さいます。私たちは、このイエス・キリストを通して、神様の愛を知り、この神様の愛に心打たれて、勇気をいただき、立ち上がったのではないでしょうか。そしてその日以来、私たちはこの神様の愛を、今も様々な仕方で味わい続けているのです。

「私は復活であり、命である」とイエス様は言われました。しかしそのイエス様がもたらして下さる新しい命は、これから私たちが新たに手に入れなければならない神秘的な命ではありません。今、私たちが生きているこの命です。イエス・キリストの十字架の愛に感動し、突き動かされて、この豊かな愛の交わりの中で、私たちも神様を愛し、隣人を愛して生き始めたのです。このイエス様との愛の交わりに生きる時に、私たちは新しい命に生き始めます。そして、この命は死を突き抜けて永遠に続くのです。

 私たちは、日々、聖書を読み、祈る生活の中で、既にイエス様の愛に触れ、イエス様との人格的な交わりが与えられています。また人生の様々な局面で、特に試練の中で、共に歩んで下さるイエス様の恵みを生き生きと味わっているのではないかと思います。そういう仕方で私たちは、もう既にこの新しい命に生き始めているのです。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」このイエス様の招きに対して、マルタは素直に「はい、主よ」と答えました。この時、マルタは、「復活がある」「天国がある」という信仰を言い表したわけではありません。「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と、今、目の前にいるイエス様を信じる信仰を言い表したのでした。

 「このことを信じるか?!」と問われる時に、私たちも同じことを問われているのではないかと思います。今祈っているイエス様、今共に歩んでいて下さるイエス様を、私たちが「復活であり、命である」お方として信じているかどうかです。確かに復活の教理への信仰も大切でしょう。しかし、それはあくまでも聖書を正しく読むための手段であり、イエス様に生き生きと出会うための手段でしかありません。もっと大切なのは、イエス・キリストというご人格に対する信仰です。天国がある、復活はある、という信仰と共に、このイエス・キリストに対する人格的な信仰が私たちには求められているのです。

 ヨハネによる福音書は、第20章の終わりのところで、この書物の結びの言葉を記しています。こういう言葉です。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」ヨハネによる福音書20章31節の御言葉です。もうお気づきになったと思いますが、この言葉は、今日の箇所のマルタの信仰告白の言葉とそっくりです。「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」本当にそっくりですね。つまり、これは、このヨハネによる福音書を読んだあなたは、どうかこのマルタに続いて欲しい、マルタのようにイエス・キリストを信じ、復活の命に生きて欲しい、ということでしょう。

 私たちも、既に日々イエス様に出会い、イエス様と共に歩んでいる者として、「このことを信じるか?!」と問われています。今こそ、このイエス様のお言葉に素直にお答えしたいと思います。「主よ、あなたを信じます。あなたこそ、神の子、メシアです。復活であり、命であり、私の救い主です!」と。

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