日曜朝の礼拝「死で終わらない命」

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死で終わらない命

日付
説教
吉田謙 牧師
4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。・・・」11 「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
ヨハネによる福音書 11章1節-16節

 今日の箇所には、死んだラザロという人をイエス様が生き返らせた、という奇跡物語が記されています。来週学ぶ箇所には、イエス様ご自身のお言葉がこのように記されています。25節。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。』」

 人は皆いつかは死んでいきます。しかし、イエス様を信じる者は、死んでも生きる、と言われているのです。イエス様は、死の力をも打ち破ることの出来るお方です。ヨハネは、どうしてもそのことを伝えたくて、このラザロの物語をここに記したのでした。

「わたしたちの友ラザロが眠っている。」とイエス様は言われました。ラザロのことを「友」と呼んで下さったのです。イエス様はある時、こう言われました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ヨハネによる福音書15章13節の御言葉です。このお言葉通りに、イエス様はラザロの真の友として、命懸けでラザロを死の眠りから呼びさまして下さったのです。実際に、このラザロの事件が一つのキッカケとなり、イエス様は十字架につけられ、殺されてしまったのでした。イエス様は、将に命懸けでラザロを死の眠りから呼びさまして下さったのです。

 ラザロは、この時生き返りました。しかし、やがてはまた死んでいったのです。今もどこかの町で、二千年間生き続けているわけではありません。今度は、本当に死んでしまったのです。それでは意味がないではないか、と思われるのかもしれません。しかし、そうではないのです。「死は終わりではない。絶望ではない。私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる!」と言われたイエス様は、やがて十字架刑に処せられて死んでしまわれました。けれども、それで終わったのではなくて、主は三日目に死に打ち勝ち、私たちの先駆けとして甦って下さったのです。そして今も生きて働いておられます。このイエス様を信じ、このイエス様にしっかりと結びつくならば、私たちも「死んでも生きる!」今日の物語は、そのことを指し示している物語なのです。イエス様は、この時既に、やがて完全な形であらわされる「永遠の命への希望」を、前もって、目に見える形で指し示して下さったのでした。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネによる福音書3章16節の御言葉です。これは、これまでにも何度もお話ししましたように、このヨハネによる福音書の中心的な御言葉です。そして、このラザロの甦りの物語は、この御言葉が真実であることを決定づけるような大切な物語なのです。イエス様を愛し、イエス様を信じる者を、神様は決してお見捨てになりません。御子を十字架に犠牲にするほどまでに愛し抜いて下さいます。そして、その神様の愛は、死によって決して途切れることがない。永遠に愛し続けて下さるのです。これが永遠の命です。

 死後の命のことは、科学的に証明することはできません。しかし、死後の命の確かさは、愛によって知ることができるのではないでしょうか。私たちは、この礼拝の中で、聖霊の導きによって、神様の愛を豊かに味わい知ることが出来ています。そうであるならば、その愛の中で、死の時も、死の後も、共に生きてくださるその神様を覚えることができるはずです。そういうわけで、この礼拝の時というのは、とても大切な時ではないかと私は思います。私たちは、この礼拝の中で、神様と交わります。神様の愛を知り、神様を仰ぎ見ます。私という存在が神様からどれほど大切にされているかという喜びを、しみじみと味わうのです。子供は、愛されることを繰り返し味わう中で、自分の母親を知っていきます。一度ではなくて、日ごとに繰り返される愛情のこもった一つ一つの事柄を通して、母親が自分を大切に思っていることや、決して自分を見捨てたりしないことを、子供は少しずつ知っていくのです。私たちは礼拝の度に、この席に神様によって招かれながら、神様に愛され、神様によって大切にされていることを、繰り返し味わっていくのではないでしょうか。

 神様の愛は、どんなことがあっても決して変わることがありません。永遠に愛し続けて下さいます。私たちが年老いて仕事が出来なくなっても、若い時の元気や美貌が失われていっても、たとえ寝たきりになったとしても、いやそれどころか、死んで肉体が朽ちていったとしても、あなたがあなたであることには変わりない。そしてあなたは値高く、尊く、私はあなたを愛している、と言って下さる。「あなたは生きよ。永遠の命を受けよ!」と、ご自分の独り子を身代わりとして十字架に送って下さったのです。

 独り子を十字架に犠牲にするほどまでに私たちを愛して愛して止まない神様は、御子を信じる私たちが一人も滅びることがないように、私たちに永遠の命を与えて下さいます。これが神様の約束です。神様は真実なお方ですから、約束なさったことは必ず果たして下さいます。いや、既に私たちは、永遠の命に生き始めているのです。しかし残念ながら、この永遠の命の道は、まだまだ発展途上であり、不完全です。悲しみや労苦や闘いが、尚こびり付いています。けれども、同じヨハネが書いたヨハネの黙示録によると、この永遠の命の道には、悲しみや嘆きや労苦が全くない、涙がことごとくぬぐい取られる完成の時、本当の喜びの時が約束されているのです。ヨハネの黙示録21章3節、4節の御言葉です。

 この2年間、私たちは、新型コロナウィルス感染症に翻弄され続けてきました。これからどうなっていくのか、私たちには分かりません。けれども、御子を十字架に犠牲にするほどまでに私たちを愛して愛して止まない神様が、私たちをみすみす滅びるままにしておかれるはずがあるでしょうか。どんなことがあろうとも、私たちをこの永遠の命の完成にあずからせて下さいます。この神様の約束だけは決して変わることがありません。この約束をかたく信じ、これからもこの激動の時代を、諦めることなく、希望をもって歩んでいきたいと思います。

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