日曜朝の礼拝「神の子イエス」

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神の子イエス

日付
説教
吉田謙 牧師
37 もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。38 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。
ヨハネによる福音書 10章31節-38節

 今日の箇所で語られていることの中心は、何と言ってもイエス様は、言葉を通して、あるいは業を通して、また最終的には十字架を通して、父なる神様のことを寸分の狂いもなく現している、ということです。

 イエス様を見つめるならば、特に、その十字架を見つめるならば、神様のことがはっきりと分かる。これは私たちが忘れてはならないことではないかと思います。

 神様が罪を忌み嫌われることは、旧約聖書の中で、何度も繰り返し語られてきたことでした。しかし、どれぐらい罪を忌み嫌われるのかは、まだボンヤリとしていたのです。ところがイエス・キリストは、この罪のためには、たとえ独り子であっても見捨てなければならない、それほどまでに神様は罪を忌み嫌われるのだと、ご自身の十字架への生涯を通して、はっきりと表されたのです。また、神様が私たちのことをどれほど愛しておられるのか、ということについても、旧約聖書の預言者たちが、これまで一所懸命に語ってきたことでした。しかし、イエス・キリストは、最後に十字架の上で、その肉を裂き、血を流しながら、「これほどまでに神様はあなた方のことを愛しておられる!」と命懸けで表して下さったのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」神様が私たちのことをどのように思っておられるのかは、イエス・キリストの十字架を通して、本当に鮮やかに示されたのでした。

 牧師をしていると、一年に一度や二度くらいは、「私は神様から罰せられているのではないか?!」という相談を受けることがあります。勿論、「そんなことはありませんよ。神様はあなたのことを愛しておられます。決してあなたのことをお見捨てにはなりません!」そういう話は必ずするようにしています。けれども、時にそれはどうにもならない深刻な問題で、ただ呆然と話を聞くことしか出来ないことがあるのです。何にもしてあげられない。本当に自分の無力さを痛感させられます。けれども、神様が人を呪ったり、怒りをぶつけたりするようなことは決してありません。それはイエス様の十字架を見れば明らかです。ですから私は、そういう時には、必ずその方と一緒に祈るようにしています。「どうか、この方を祝福して下さい。あなたの怒りと呪いがくだったかのように、この方は思い込んでおられます。御子の十字架によって、神様の怒りと呪いは全部解決されました。どうか、そのことを私たちに悟らせて下さい。そして、今、助けを必要としているこの方をあなたが支えて下さい。立ち上がらせて下さい。祝福して下さい」こう祈るのです。そうすると、神様は必ずその方を祝福して下さいます。いや、もっと正確に言うならば、既にその方は祝福されているのです。ただそのことにまだ目が開かれていないだけです。ですから、その方の目が開かれると、瞬時にして平安が与えられます。時には相談に来られた時の悲壮感漂う姿が、帰る時にはもう全く別人であるかのように変えられていることがあるのです。もう鳥肌が立つような経験です。

 様々な災いが起こる時に、「先祖の祟りである」と言われて、いかがわしい宗教に振り回される人がいます。様々な苦難を味わう時に、自分には罰(ばち)が当たったとおびえる人がいます。苦しみの中で、自分の犯した過ちを反省することは何も悪いことではありません。むしろ尊いことでしょう。けれども、私たちはその後に、この希望の中に招かれるのです。「あなたの罪は赦されている。あなたの身に起こっている苦難は、決して神が怒っているしるしではない。呪っているしるしではない。そうではなくて、神はその怒りと呪いを全部十字架のイエス・キリストに向けられた。そして、もう神の怒りと呪いは一欠片も残っていない。神とのこじれた関係は、十字架のイエス・キリストによって既に修復されたのだ!」私たちは、この平安の中に招かれているのです。

 ヘブライ人への手紙の中にこういう御言葉があります。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」ヘブライ人への手紙12章2節以下の御言葉です。新改訳でお読みいたしました。本当にこの御言葉の通りだと思います。私たちが元気を失い、疲れ果てている時は、決まって信仰がぼんやりとしている時ではないかと思います。イエス・キリストの十字架の恵みがぼやけてしまうので、元気が出てこないのです。

 神様は、そうやって元気を失い、うなだれている私たちを、週毎の礼拝の中で、繰り返し励まして下さいます。「あなたの罪を贖い、あなたを滅びから救い出すために私は御子を十字架に送った。私にとってあなたは、それほどまでに価高く、尊く、絶対に失われてはならない、誰にも替えがたい宝物のような存在なのだ。どんなことがあろうとも、私は決してあなたを見捨てない!」私たちは、礼拝の中で、繰り返し、この神様の御声を聞くのです。何も厳しい現実が変わるわけではありません。けれども、イエス・キリストの十字架の恵みが、私たちの内側で生き生きと息づいていく時に、どんなに厳しい苦難に出会ったとしても、私たちはぎりぎりのところで踏みとどまることが出来る。何故でしょうか。「神様は私のことを御子を十字架に犠牲にするほどまでに愛し抜いておられる。決して私のことをお見捨てにならない。私の人生は全てこの神様の御手の中にある!」このことを知っているからです。今日も私たちは、神様によって信仰の目を開いていただき、イエス・キリストの十字架の恵みを、今一度、心に刻みたいと思います。そして、どんなことがあろうとも私の人生は神様の御手の中にあることを信じ、決して諦めることなく、厳しい現実としっかりと向き合いながら、希望をもって歩んでいきたいと思います。

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