日曜朝の礼拝「主イエスの羊」

日本キリスト改革派 吹田市千里の教会ホームページへ戻る

問い合わせ

主イエスの羊

日付
説教
吉田謙 牧師
26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。
ヨハネによる福音書 10章19節-30節

 「あなた方はわたしの羊ではない。」これが人々がイエス様を信じることが出来ない根本的な理由なのだ、と主は言われました。では、イエス様の羊とは、どういう人のことを言うのでしょうか。27節のところには、こう言われています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」

 イエス様の羊は、イエス様の声をちゃんと聞き分け、イエス様に喜んで従っていく、と言うのです。これはある意味、奇跡ではないかと思います。イエス様の御言葉。イエス様の御業。これは本来、人間の常識では受け入れられないものなのです。「悪霊に取りつかれている。気が変になっているのではないか?!」これが世の常識でした。結局、この世の常識がイエス様を十字架につけたのです。イエス様が十字架につけられた時、人々はこう叫びました。「お前がユダヤ人の王なら、その圧倒的な力で、敵を蹴散らし、自分を救ったらどうか?!」と。しかし、イエス様のお答えはこうでした。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」人々の常識からするならば、自分を救わない救い主など考えられなかったでしょう。「おめおめと十字架の上で惨めな死を遂げるような者が、どうして救い主と言えようか?!誰がそんな男に従うというのか?!」これが世の常識でした。使徒パウロもこう言っています。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」コリントの信徒への手紙第一の1章22節以下の御言葉です。十字架のイエス・キリストは、ユダヤ人にとってはつまずきでしかない。異邦人にとっては愚かでしかない。その通りでしょう。しかし、この十字架のキリスト以外に人間の救いはありません。他人を救ったけれども自分自身を救わなかったイエス・キリスト。自分自身の救いを放棄し、罪人(つみびと)である私たちの罪を全部担い、十字架の上で神の怒りと呪いを一身に受けて下さったイエス・キリスト。このお方以外に私たちの救いはないのです。誰が何と言おうと、「愚かだ!つまずきだ!」と、たとえ世の大半の人々がけなそうと、このお方こそ真の救い主、真の王なのだと信じる人がイエス様の羊なのです。

 そう言われてからイエス様は、イエス様の羊であることが、いかに素晴らしいことであるかを、今日の御言葉の最後のところで語っておられます。28節。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」

 イエス様はこのお言葉を、ご自分を信じることの出来ない人々に向かって語られました。つまり、これは「あなた方はわたしの羊ではない」と言った人々に向かって、イエス様の羊になることが、いかに素晴らしいことであるかを語られたお言葉なのです。ですから、これは「イエス様の羊になることへの招きの言葉である」と言われたりもいたします。

 そういう招きの言葉の中でイエス様は、「わたしはわたしの羊に永遠の命を与える」と言われました。この「永遠の命」という言葉は、ヨハネによる福音書が大好きな言葉です。これまでにも、何度も説明しましたように、この「永遠の命」というのは、いつまでも終わらない命というだけではなくて、充実した命、本物の命という気持ちが込められている言葉です。生きていることの素晴らしさを、本当に生き生きと味わえるような命。喜びに満ち溢れている命。この命が永遠に続くのです。これが「永遠の命」です。そして、その喜びの中心は、この羊飼いであるイエス様との愛の交わりにあります。イエス様の羊は、イエス様との豊かな愛の交わりの中を生きることが出来るのです。

 28節の後半に、「彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」とイエス様は言われました。この「決して滅びず」という言葉は、直訳すると「永遠に滅びず」という言葉です。永遠の命というのは、今豊かで充実している、というだけではなくて、やはり永遠に滅びず、いつまでも続く命なのです。

 またイエス様は、29節のところでこうも言われました。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」

 「わたしの父がわたしにくださったもの」、これは羊のことです。つまり、私たちのことなのです。この私たちが、全てのものに優って偉大である、と言われているのです。「偉大である」と言われると、皆さんはどう思われるでしょうか。何か落ち着かない気がしますね。「本当にこれは私たちのことを言っているのだろうか?」と耳を疑ってしまいます。けれども、この「偉大である」という言葉は、他の聖書の箇所では「尊い」とも翻訳されている言葉です。「あなたはすべてのものに優って尊い!」と言うのです。これでもまだ畏れ多いことですが、しかしこの言葉なら、私たちは聖書から何度も聞いている言葉ではないかと思います。今日も、礼拝の招きの言葉の中で、イザヤ書からこの言葉を聞きました。「わたしの目にあなたは値高く、尊い。私はあなたを愛している。」この御言葉です。父なる神様からイエス様に与えられたもの、即ち私たち一人一人は、他の全てのものよりも高価で尊い、とイエス様は言って下さったのでした。

 本当に感謝なことに、父なる神様が私たちのことをイエス様に手渡される時に、これは全てのものよりも尊いと言われながら手渡されました。ご自分の独り子を十字架につけてでも私たちに永遠の命を与えたいと思われるほどに、私たちのことを大切な存在としてイエス様の手に委ねられたのです。それを受け取られたイエス様の方も、私と父とは一つである、一致している、と言われながら、この羊のために命を捨てて下さったのでした。

礼拝に来てみませんか?

千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。

ホームページからでしたらお問い合わせフォームを。お電話なら06-6834-4257まで。お電話の場合、一言「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると、話が伝わりやすくなります。