日曜朝の礼拝「イエスは羊飼い」

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イエスは羊飼い

日付
説教
吉田謙 牧師
14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
ヨハネによる福音書 10章11節-18節

 今日の箇所で注目したいのは、羊と羊飼いの絆が非常に堅く、お互いがお互いのことをよく知り合っている、ということです。このことは、前回学んだ1節から5節のところにも既に語られていました。今日の箇所では、14節と15節のところで、このことがとても印象的な仕方で語られています。この15節のところには、「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」と言われています。この翻訳では、今ひとつ繋がりがよく分かりません。けれども、これを直訳すると、こうなるのです。「それは父が私を知っておられ、私が父を知っていて、羊のために命を捨てるのと同じである。」

 父なる神様は、私たちのことを本当に愛しておられます。私たちを救うためには、ご自分の独り子を十字架につけてもかまわないと思われるほどに、私たちのことを愛し抜いておられるのです。イエス様は、その父なる神様の御心をよく知っておられ、そのことのゆえに、「私は羊のために命を捨てるのだ!」と言われるのです。これは、途轍もなく深く、確かな知り方ですね。ところが、このようなイエス様の知り方と、私たちがイエス様のことを知っている知り方とは同じである、と主は言われるのです。これは驚くべきことではないでしょうか。ここで私たちが注意すべきことは、イエス様と私たちとの間にある知り方が同じだというのは、その知り方の種類が同じなのだ、ということです

 相手を知る知り方には色んな種類の知り方があると思います。ただ情報だけを集め、「この人間はこういうタイプの人間である!」と判断するだけの心の通わない知り方もあるでしょう。けれども、聖書の中で「神様を知る」「イエス様を知る」と言われる時には、もっと別の知り方を言うのです。それは「愛する」と言い換えることもできるような知り方です。心を通わせ、交わりながら知るのです。

 草花の芽にいくら水をやっても、肥料を沢山補充しても、大木にはなりません。それは種類が違うからです。それと同じように、どんなに頑張ってみても育たない愛がある。しかし、私たちがイエス様を知った知り方、イエス様を愛する愛は、そういう育たないようなものではありません。独り子であるイエス様は、自分が十字架につくことを神様が願っておられることを知った時に、心から喜んで十字架へと突き進んで行かれました。こんなにも大きな愛、こんなにも素晴らしい愛と同じ種類の愛を私たちは、今いただいているのです。イエス様を愛する私たちの愛は、そういう愛なのです。今はまだまだ発展途上で、本当に小さな小さな愛なのかもしれません。けれども、この愛はイエス様と同じ種類の愛であり、やがては大きく大きく成長していくのです。やがて私たちは天国に入った時に、イエス様そっくりの人間に変えられていく、イエス様と全く同じ愛で神様を愛し、兄弟姉妹を愛するように変えられていくはずです。

 私たちは、最初からイエス様の羊だったわけではありません。かつてはイエス様を知らず、イエス様を無視し、イエス様の愛を踏みにじっていました。けれども、そのように私たちが敵対している時から、既にイエス様は、私たちのことをちゃんと知っておられ、私たちを滅びるままにしておかれなかったのです。羊飼いなるイエス様は、父なる神様の御心を行うために命がけで羊を探し求め、守り、受け入れて下さいました。本来、罪人の私たち一人一人が受けなければならない神様の怒り、神様の裁きを、イエス様が全部その身に引き受けて、私たちの身代わりとなって十字架の上で死んで下さったのです。「私はよい羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ福音書10:11)。将にこの御言葉の通りです。

羊と羊飼いの関係は、14節と15節のところで、父なる神様とイエス様との間柄に譬えられているように、本当に密接な関係であり、お互いによく知り合っている関係です。けれども、今見てきたように、やはりそこには時間差があるのです。羊が好き放題をし、迷い出ている時から、羊飼いの方は羊を知り、命懸けで探し求めて下さいます。私たちがイエス様に敵対し、無視していた時から、イエス様はまず私たちに先立ち、私たちのことを知り、私たちの罪のために十字架の上で神様の怒りと呪いを一身に受けて、救いの道を備えて下さったのでした。

 宗教改革者カルヴァンは、この羊飼いの譬えを、このように解説しています。「主が私たちのために命を捨てられた時、私たちは全て柔和な羊ではなく、獅子であり、虎であり、狼、熊であった。」

 イエス様が私たちのために命を捨てて下さった時に、私たちは羊ではなかったのです。ライオンであり、虎であり、狼であり、熊でした。本当に手がつけられないような神様に背く人間だったのです。それにも関わらず、イエス様の方は、そんな私たちのことを羊として受けとめ、そのために命を捨てて下さったのでした。こうしてイエス様は、命を捨てるような仕方で、まず私たちに先立ち、私たちを愛し抜いて下さいました。私たちの愛は、このイエス様の先立つ愛の中で少しずつ成長していくのではないかと思います。

 弟子のペトロはイエス様に対する信仰を言い表しながら、結局、最後にはイエス様を裏切ってしまいました。けれども、ペトロは裏切る前に、イエス様から前もってこう言われていた、と福音書は伝えています。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」(ルカ福音書22:31)。これは羊飼いであるイエス様のお姿を、本当に鮮やかな仕方で表しているお言葉ではないかと思います。ペトロがイエス様を裏切ろうとしている時に、このペトロのことをイエス様はちゃんとご存じでした。そして、このペトロのために祈っておられた、と言うのです。先立つ愛でイエス様はこのペトロを愛されたのです。この時のペトロは、決して羊ではなく、主人に噛みつくような狼や虎のような存在でした。けれども、この羊飼いであるイエス様のあたたかい眼差しの中で、やがてペトロも本当の羊に変えられていったのです。私たちも、このペトロのように、イエス様のあたたかい眼差しの中で、少しずつ変えられていくのではないでしょうか。

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