日曜朝の礼拝「わたしは羊の門である」

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わたしは羊の門である

日付
説教
吉田謙 牧師
1 はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。・・・はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
ヨハネによる福音書 10章1節-10節

 後のところで、この門はイエス様のことである、と解説されています。つまり、イエス様を通らないで羊に近づく人間は羊飼いではない、羊泥棒なのだ、とイエス様は指摘されたのでした。これは、直接的には、ファリサイ派の人々に対するイエス様の批判のお言葉です。「わたしを認めず、わたしを通らないで羊を導こうとするあなた方は、羊飼いではない、羊泥棒なのだ!」と主は言われるのです。しかし、これはただファリサイ派の人々だけに語られた言葉ではなくて、私たちにも語りかけられていると思います。

 私は「牧師」という名前で呼ばれる人間です。この牧師という言葉は、もともとは羊飼いという言葉から生まれてきた言葉です。羊飼いが羊の命を守り、配慮する務めを果たすように、牧師には、教会員の魂を守り、配慮する役割が与えられています。もし牧師である私が、イエス・キリストを通らないで皆さんに近づいて行ったならば、本当の羊飼いではありません。それは泥棒であり、強盗である、と主は言われるのです。

 ある先生が説教集の中で、このことに関して非常に厳しいことを書いておられました。「この羊飼いたちが、どうしてもしなければならないことは、自分の声で羊たちを迷わせてはならないということである。いつもキリストの声がこの教会に響き続けているように、全存在を賭け、全力を注ぐ。皆さんが、われわれ牧師からキリストの声が聞こえなくなったと思ったら、この牧師は役に立たないと退けてよい。戦ってでも追い出さなければならないほどの厳しいものである。」

 非常に衝撃的な言葉ですね。しかし、この羊飼いの務めは、それだけ命に関わる大切な務めなのだ、ということでしょう。私も気を引き締めて、キリストの御声がこの教会の中に響き渡るように、この務めに全存在を賭けていきたいと改めて思わされています。

 しかし、これは牧師だけのことではありません。私たちにはそれぞれに、魂の配慮をしなければならない人がいるのではないかと思います。愛する家族や友人の魂が救われて欲しいと願い、私たちはそのために様々な仕方でその魂に関わっていきます。私たちには、それぞれに、そういう人が与えられているのではないでしょうか。そういう意味では、クリスチャンは皆、羊飼いなのです。そういう羊飼いの仕事をすべき人が、キリストという門を通らないで相手に近づいていくならば、その人は羊飼いではなくて、盗人であり、強盗である、と主は言われるのです。

 では、このキリストという門を通るというのは、具体的にはどういうことでしょうか。9節のところで、イエス様はこう言われました。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

 キリストという門を通る人は、初めから羊飼いとして通るわけではありません。初めは羊として通るのです。羊として、イエス・キリストという門を通り、牧草を見つけ、豊かな養いをいただく、と言われているのです。ここで誤解してはならないことがあります。クリスチャンらしく、清く、正しく、立派にならなければ羊飼いにはなれない、ということでは決してありません。勿論、イエス・キリストが私の救い主であるという信仰は必要でしょう。イエス・キリストの十字架と復活が信じられない、これでは到底、羊飼いにはなれません。しかし、そういう人は、そもそも羊飼いどころか、クリスチャンではないですね。クリスチャンであるならば、皆、羊飼いになれるのです。ただ私たちが注意しなければならないのは、先週も学びましたように、「私は分かった。神様が見えている。イエス様が見えている!」とイエス様のことを求めなくなってしまう高慢です。

 「私には本当に人を愛する力がありません。神様を愛する力がありません。何度決心しても、すぐにその決心は揺らいでしまいます。私は本当に罪深い人間です。どうしようもない人間なのです。年を重ねるごとに、私はそのことがだんだんと分かってきました。」そういうことを打ち明けて下さる方が中にはいらっしゃいます。では、こういう方は羊飼いにはなれないのでしょうか。決してそうではありません。「すぐに決心が揺らいでしまう。年を重ねるごとに、自分が罪深い人間であることが、いよいよ明らかになってきた!」これは裏返して言うならば、この方は、裏切っても裏切っても、なお愛し続けて下さる神様の愛の深さも分かってきた、ということでしょう。最初、信仰をもった時には、神様の愛はこの程度のものだろうと思っていたのが、毎年、いやそうではなかった!神様の愛はもっと大きかった!いやこれでもまだ足りない、もっともっと大きかった!このように年を重ねるごとに新鮮な驚きを覚えるのです。これは「神様の愛は十分に分かった!」という態度とはまるっきり正反対です。そして、これこそが本当のクリスチャンの姿ではないかと私は思います。私たちは、何かが出来るから救われるのではありません。これはあくまでも神様の恵みです。そして、一生涯を振り返ってみると、結局、私の人生は神様からの憐れみの連続でしかなかったと思う。これがクリスチャンの人生ではないでしょうか。たとえ何十年信仰生活を送っても、「ああ、神様はこんなにも私を愛していて下さったのか?!」と新鮮な驚きがあるのです。だからこそ私たちは、毎週、こうやって飽きもせずに礼拝にやってくるのではないでしょうか。そのようにしてイエス様を通して、日々、神様の豊かな恵みをいただいている人は、皆、羊飼いになれるのです。

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