日曜朝の礼拝「たた一つ知っていること」

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たた一つ知っていること

日付
説教
吉田謙 牧師
25 あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。・・・ 32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。
ヨハネによる福音書 9章8節-34節

 先週は、生まれつき目の見えない人をイエス様が癒された、という奇跡物語を学びました、今日はその後の物語を学びます。先週学んだように、この箇所で「見える」「見えない」と言われているのは、肉体の目のことではなくて、魂の目の問題でした。ですから、この目が癒された人は、ただ肉の目が癒されただけではなくて、結局、魂の目が癒されたのです。そして癒された魂の目をもって、彼は「神様の恵みが今、自分のもとにも届いている」という真理をしっかりと見据えることが出来たのでした。

 イエス様は、世間から見捨てられ、廃除されていたような病人や障害者たち、徴税人や罪人と言われる町の嫌われ者たちのところへ、自ら進んで飛び込んで行き、彼らを癒し、彼らと一緒に食事をなさいました。そうやって彼らを慰め、いたわり、助け、愛しながら、「あなた方も神の国の一員なのだ!」と宣言されたのです。そして、イエス様は、その生涯の終わりに、本当に驚くべき仕方で、この神様の愛をはっきりと現して下さいました。ご自分の独り子を捨ててまで私たちのことを愛し抜いて下さる、この神様の大きな大きな愛を、あの十字架の上で命を懸けて現して下さったのです。「どんなに罪深く、汚れていたとしても、たとえ世間から見捨てられたような人であっても、神様からは決して見捨てられていない。その人も神様の愛の眼差しの中に置かれているのだ!」この人は、将にこのことに目が開かれたのでした。

 今日の物語で私が一番心打たれたのは、この信仰を言い表した人の本当に勇気ある態度です。彼は、目が見えない時には、多くの人々の慈悲をいただいていました。ところが目が開いた途端に、世間の風が冷たくなってしまったのです。彼の両親でさえも彼を見捨てて、遠ざかってしまいました。それでも彼は、自分の信仰を大胆に言い表したのです。もう世間や両親の言動には惑わされない、神様からも世間からも見捨てられたと思い込んでいた彼のもとに、神様のもとからイエス様が遣わされて、神様の愛が鮮やかに届いてきたのです。このことが、彼にとって、どれほど大きな出来事であったかがよく分かります。25節のところに、彼の勇気の秘密が記されています。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

 彼は、ただ一つのことを知った者として、宗教の専門家であるファリサイ派の人々に対しても堂々と正論を語り、彼らの言い分を打ち破ることが出来たのです。ファリサイ派の人々は、熱心に聖書を研究し、多くのことを知っていました。安息日は、どう守らなければならないのかを、自分たちで解釈に解釈を重ね、分厚い解説書を持っていたのです。けれども、たった一つのことを彼らは知りませんでした。神様の愛の眼差しが自分たちにも向けられていて、それは神様から遣わされたイエス・キリストを通して、今や鮮やかな仕方で現わされている、ということです。このたった一つのこと、しかし、この一番大切なことを、ファリサイ派の人々は理解できませんでした。彼らは、聖書を一所懸命に研究していました。けれども、この一番肝心なことが抜け落ちていたのです。このたった一つのことを知らない聖書の専門家を、ただ一つのことを知っている一般人が見事に言い負かしてしまった。これが今日の物語を読んでいて、痛快なところではないかと思います。

 聖書を学び、聖書の知識を一杯詰め込めば、それでいいと言うわけではありません。この一つのことを知らなければ意味がないのです。この癒された人は、熱心に聖書の研究をしている学者たちの前に堂々と立ち、「私はたった一つのことを知っている!」と言うことが出来ました。それは自分に関わることであり、他でもない自分が経験したことでした。それは、どんなに研究に研究を重ねた学者たちの権威ある解釈も、あっさりと蹴散らすことが出来たのです。それは、「神様の愛が他でもないこの私にちゃんと届いている!」という、このたった一つのことです。このことさえしっかりとつかんでいれば、もうそれで十分です。しかし逆に言えば、この一つのことが、ぼんやりとしているならば、いくら一所懸命、聖書を学び、素晴らしい奉仕をし、清い生活をしていたとしても駄目なのです。残念ながら、その人の信仰は空しいのであります。

 私たちも、この神様の愛に感動し、それぞれにクリスチャンとして歩み始めたのではないかと思います。ある方が、こんな証しを聞かせてくださいました。「まことの神様を知らずに生きてきた私は、自分の力を頼りに、頑張っても頑張っても空しい人生を送ってきました。しかし、こんな私にも信仰が与えられ、これまで善いことと思っていたことをも含めて、自分が成してきた全てが、自分の欲望であったことを知りました。ところが、そのような私さえも、イエス様を通して神様は赦して下さっていることを知った時の喜びは、本当に驚くべき喜びでした。この深い大きな神様の愛を知り、私の心に初めて、えも言えない平安が訪れたのです。」こういう証しです。

おそらく、私たちは皆、多かれ少なかれ、この方と同じような経験や証しをそれぞれにもっているのではないかと思います。私たちは、この一つのことをしっかりとつかみ取っているでしょうか。具体的な日々の生活の中で、信仰が息づいているでしょうか。神様の愛に満たされて日々を送っているでしょうか。知識ばかりが先行し、頭でっかちの、まるで哲学のような信仰になってはいないでしょうか。もう一度、それぞれの信仰を振り返っていただきたいと思います。最初は、皆、情熱と感動をもって、信仰をスタートしたはずなのです。けれども、いつの間にか、それを忘れてしまっていることがある。求道者の方々は、今、そういう生き生きとした、命に溢れた信仰に生き始めているのかもしれません。あるいは、これから、そういう経験をしようとしておられるのかもしれない。どうか、この一つのことを宝物のようにして大切にしていただきたいと思います。既に信仰をもっておられる方々は、もう一度この最初の時の思いに立ち返り、思いを新たにし、このかつて目が見えなかった人のように、本当に生き生きと、しかも何ものにもとらわれず、勇気をもって自らの信仰を言い表す者となっていただきたいと思います。

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