日曜朝の礼拝「シロアムの池に行って洗いなさい」

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シロアムの池に行って洗いなさい

日付
説教
吉田謙 牧師
1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」・・・6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、『シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
ヨハネによる福音書 9章1節-12節

 今日の箇所には、生まれつき目が見えない人をイエス様が癒されたという奇跡物語が記されています。ただし、ただ単に不思議な出来事を伝えているだけではなくて、この物語には象徴的な意味が込められているのです。シロアムというのは池の名前です。池の名前に注釈をつけるというのは珍しいことではないかと思います。しかし、この福音書を書いたヨハネは、この池の名前に深い意味があることを、私たちに知らせたいのです。もともとこのシロアムの池は、「ギホンの泉」という泉があり、その泉から送られてきた水によって出来た溜め池でした。「送り出された水」、これが「シロアムの池」という言葉のもともとの意味なのです。日本語に翻訳する時に、それを「遣わされた者」と翻訳したのでした。これはとても良い翻訳ではないかと私は思います。この「遣わされた者」という注釈は、明らかに4節の御言葉と関係しています。4節でイエス様はこう言っておられます。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。」

 ここでの、お遣わしになった方というのは、イエス・キリストの父なる神様のことです。そして遣わされたのはイエス・キリストです。そうすると、このシロアムの池はイエス・キリストのことを象徴していることが分かってくると思います。

 要するに、この物語は、単に目の見えない人の目が癒された物語ではなくて、一人の人がイエス・キリストによって魂の目が開かれ、水によって洗われた、即ち洗礼を受けた、ということを象徴している物語なのです。唾そのものに意味があったわけではありません。これは泥を作るために必要でした。また泥そのものにも意味はありません。これは目を洗わせるために必要でした。すべての行動は、この人が「シロアム」で洗うところへと向かわせていたのです。

 目が見えないこの人が取った行動は、ただ一つのことでした。それは、イエス・キリストを信じ、出かけていくことでした。泥だらけの顔をして、この人はエルサレムの大通りを歩いて行ったのです。人々は「なんて馬鹿なことをしているのか?!」と嘲笑ったのかもしれません。しかし、この人はイエス様から言われた通りに、真っ直ぐにシロアムの池に行き、目を洗ったのです。するとどうでしょう。なんとこの人は見えるようになった、と言うのです。神様の御業は、こういう仕方で現れたのでした。本当に単純な信仰です。けれども、こういう仕方でしか救われる道はないのです。修行を積み、良い行いを積み上げて、自分の力や賢さで、なんとかすることなど出来ません。人が笑おうが、馬鹿にしようが、この私に向かって、ただひたすらに神様の愛を知らせて下さるお方を素直に信じ、受け入れる以外に救われる道はないのです。

 この目の見えない人の物語は、私たちの物語でもあります。この人は生まれながらの盲人でした。光を経験したことがなかったのです。同じように、人間は生まれながらにして霊的に闇の中を生きています。光を遮っているのは、あの人、この人の罪ではありません。もっと深刻な、人間の存在そのものにまとわりついている根源的な罪です。神の光が、その人間の根源的な罪によって遮られているのです。

 しかし、闇の中にいたこの人の傍らに、世の光であるイエス様が立たれました。イエス様は、神の光を世にもたらすために、この世に来て下さったお方です。けれども、目が閉ざされているがゆえに、彼には世の光であるイエス様が見えませんでした。光がすぐ近くにあるというのに、彼は、なお闇の中にいたのです。同じようにイエス様は、今、私たちの暗い人生の傍らに立っておられます。けれども、罪がそのままであり、神の光を遮っているならば、光はなおその人の内には届いてきません。闇は闇のままなのです。

 そこで彼は、「シロアムの池に行って洗うように!」との御声を聞きました。彼はその御声に素直に聞き従ったのです。すると、泥が洗い落とされた時、彼の目は開かれ、光が差し込みました。彼は、その開かれた目をもってイエス・キリストを見たのです。

 同じように、主は私たちにも泥を塗られます。洗わなくてはならない罪深い現実を、私たちに明らかにされるのです。自分の汚れ、自分の罪深さを明らかにされるというのは、とても辛いことであり、嫌なことでしょう。出来るならば見ないですませたいと思う。けれども、神様の御業は、そういうところから始まります。罪に気づかされるのは、本当は恵みなのです。この人が自らの盲目をどうすることもできなかったように、私たちには、神の光を遮り、闇をもたらす罪の問題を、自ら解決することは出来ません。では、どうすればよいのでしょうか。洗ってもらうしかないのです。この盲人のように、ただイエス・キリストを信じ、このお方に洗い流していただく他はないのです。

 そもそも信仰とは何でしょうか。信仰とは、自分の力を信じることではありません。そうではなくて、自分自身の罪の大きさを知り、その罪の縄目から私たちを救い出して下さる神様の力を信じる、ということです。そうやって私たちが主を信じ、主と共に歩み始める時に、主が私たちをしっかりと捉えていて下さいます。主が私たちの魂の目を開き、どんな激しい嵐の中にあっても、主に愛され、主が共にいて下さる平安を、心の最も奥底に届けて下さるのです。これは自分で頑張ってどうこう出来るものではありません。神様と共に生きている人のみが経験できる不思議な平安なのです。

 私たちも、この盲人のように、罪にまみれた身を洗っていただくために、泥だらけの顔をひっさげて、イエス様の十字架のもとへと真っ直ぐに飛び込んでいきたいと思います。そうする時に、私たちの心の目は開かれ、神様の愛と平安が、私たちの心をきっと深いところで満たしてくれることでしょう。

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