日曜朝の礼拝「初めに言があった」

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初めに言があった

日付
説教
吉田謙 牧師
1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
ヨハネによる福音書 1章1節-5節

 1節から5節までの全体を見わたすと、イエス・キリストというお方が神様との関係でどういうお方であるかが、最初の1節と2節に記されています。神様との関係で言うならば、キリストは神と共におられる神であった、と言うのです。二番目にヨハネは、キリストが世界との関係でどういうお方であるかを書きました。世界との関係で言うならば、キリストは世界を造られたお方である、と言うのです。最後にヨハネは、このキリストというお方が、人間との関係では、いったいどういうお方であるのかを書きました。4節のところに、「言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった」と、ヨハネは人間との関係でイエス・キリストのことを紹介したのです。

 この命という言葉は、ヨハネによる福音書に何回も出てくる言葉です。この言葉は、いつも「永遠の命」という意味で使われています。言葉であるキリストの内には永遠の命があった、とヨハネは伝えているのです。永遠の命、これは、ただ単に、ずっと続く命というだけの意味ではありません。私たちの命が、ただずっと終わらないだけの命であるならば、もう疲れ果ててしまうのではないかと思います。ヨハネが言う「永遠の命」というのは、ただずっと続く命というのではなくて、本当に生きていることの素晴らしさが現れる命、この世の命とは全く質の違う命、本物の命という意味です。そして、その命の秘密は、神様の愛にあります。

 「生きているって本当に素晴らしい!」と私たちが心の底から思える時とは、いったいどういう時でしょうか。美味しい物を食べる時や素晴らしい景色を眺める時に、あるいは音楽の音色に癒される時に、私たちは「本当に生きていてよかった!生きているって本当に素晴らしい!」と思えるのかもしれません。しかし、何よりも生きていることの素晴らしさを感じるのは、やはり愛を味わう時ではないかと思います。家族や友と心がふれ合う時に、私たちは生きていることの素晴らしさを痛感するのです。そして、その愛の中でも一番の愛、どんな時にも変わらない最高の愛が、イエス・キリストによって現された神様の愛なのです。この世のお互い同士の愛は、残年ながら移り変わることがあります。たとえ親しい仲であっても、家族であっても、私の全てを理解し、全てを受け入れてくれているわけではありません。時々、寂しい思いをすることがある。逆に、あまりにも受け入れられてしまうと、本当に大丈夫なのだろうかと心配になることもあります。本当の私の姿を知った時に、この人たちはどう思うのだろうか、と心配になるのです。この世の愛は、私たちの全てを知り、それを受け入れているわけではありません。買いかぶりがあり、気がつかないことがあり、またその愛が冷めてしまうこともある。しかしイエス・キリストが十字架に示された神様の愛は、そういう愛とは違います。私たちのことを全部理解し、私たちの罪や汚れを全部知り、私たちの一番醜い部分を知りながらも、それでも、なお「愛する」と言って下さる。私たちの罪のために十字架に掛かって死ななければならない。それほどまでに、私たちには大きな大きな罪があるのです。それにもかかわらず、神様は私たちを、罪や汚れや弱さをもったまんまで抱きしめて下さる。受けとめて下さる。愛し抜いて下さるのです。この大きな大きな愛で愛され、そして、この大きな愛に突き動かされて、私たちもイエス様と神様が大好きになっていく。また私たちの内側に、この神様の愛が満ち溢れて、兄弟姉妹をも愛することが出来るようになっていくのです。こういう愛を味わう時に、私たちは生きていることの素晴らしさを、最も生き生きと味わうことが出来るのではないでしょうか。この命がもう今始まっていて、永遠に続くのです。これが永遠の命であります。

 イエス・キリストの内に、そういう命があった、とヨハネはここで紹介しています。イエス・キリストは神そのものであるお方ですから、そういう命があるというのは、当然と言えば当然のことでしょう。しかし、ここでは、言の内に命があった、と言われているのです。イエス・キリストというお方は、言葉であるお方、私たちに語りかけて下さるお方として、その内に命を秘めておられた、と言うのです。つまりキリストは語りかけることによって、この永遠の命を私たちに伝えることが出来るお方なのです。これは私たちにとって本当に大きな希望ではないかと思います。

 さて、「光は暗闇の中で輝いている」とヨハネは語りました。これまでは「あった」「あった」と過去形の言い方で語られていたのです。しかし、ここだけ「暗闇の中で光は輝いている」と現在形で語られています。おそらくヨハネは、今の自分の現実を考えながら、この言葉を書いたのでしょう。その現実とは、今は暗闇の中ではあるけれども、そこには確かに光が輝いている、という現実でした。このヨハネによる福音書は紀元90年代の後半に書かれた、と言われています。紀元90年代の後半というと、ローマ帝国がキリスト教を本格的に迫害していた時代です。既に多くの弟子たちが、殉教の死を遂げていました。ヨハネの時代は、将に先行きの見えない暗闇の時代だったのです。けれども、「どんなに暗闇が差し迫ってきたとしても、暗闇はその光を打ち消すことが出来なかった!暗闇の中で光は輝いている!」これがヨハネの実感だったのです。

 今でも、このヨハネの時と同じように、この光は暗闇の中で輝いています。永遠の命をその内側に秘めておられるお方が、私たちに御言葉を通して語りかけて下さるのです。その御言葉に触れる時に、私たちの内側にも、その命が流れ込んできます。その命が光であり、どんな暗闇の中にあっても、私たちの心に希望の光を灯して下さるはずであります。

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