日曜朝の礼拝「わたしは去って行く」

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わたしは去って行く

日付
説教
吉田謙 牧師
21 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」
ヨハネによる福音書 8章21節-31節

 今日の箇所でイエス様は、「あなた方は自分の罪のうちに死ぬことになる」と三度も繰り返しておられます。これは、いったいどういうことでしょうか。この「罪のうちに死ぬ!」というのは、人生の終わりが近づき、いよいよ死ぬ時に、自分の罪の問題が解決されないままで死んでいく、ということです。ずるい嘘をついてしまった。人を傷つける言葉を語り、人を傷つける行いを繰り返してしまった。人の幸福を妬み、みだらな思いに走ってしまった。神様の恵みを認めず、感謝も賛美もしないで過ごしてしまった。罪のうちに死ぬというのは、そういう数々の罪が赦されないままで死ぬ、ということです。神様の怒りを受けて死んでいく、死の後にも神様の怒りの顔を永遠に見続けなければならない、こんなに恐ろしいことはありません。

 しかし神の子イエス・キリストは、私たち人間が罪のうちに死ぬことがないようにするために、ご自分を低く低くして、この地上に降りて来てくださいました。そして、この時も、そのために懸命に戦っておられたのです。「それなのにあなた方は一向に私を受け入れようとしない。このまま私を拒み続けるならば、やがて私は去って行くことになる。そうなったなら、あなた方はもう罪のうちに死ぬ他はないではないか?」このようにイエス様はここで嘆いておられるのです。

 夏目漱石の「こころ」という有名な小説があります。この小説は罪の問題を深く突き詰めて考えた小説です。主人公の先生は、「私は罪ということをつくづくと感じたのです」という遺書を残して自殺してしまいます。この主人公は、人間の罪深い人生を、インクで汚れた真っ白なテーブルクロスに例えていました。一度汚れたものは決して清くならない。これがこの主人公の人生観でした。こういう人生観は、罪を知れば知るほど惨めになり、もう自ら命を絶つしかないところへと主人公を追い込んでしまいました。この主人公の悲劇は、罪だけを知って、罪の赦しを信じることが出来なかったところにあります。しかし、キリストの福音は、「あなたの罪は赦された!」と宣言するのです。「よい行いを積み重ねていけば、あなたの罪も赦されるでしょう」と言われているのではありません。そうではなくて、自らの罪を正直に認め、心から悔い改めるならば、「もう既に、あなたの罪は、キリストの十字架の贖いによって赦されている!」と言うのです。赦されない罪はない。取り返しのつかない罪はないのです。「あの失敗があったから自分の人生は狂ってしまった!あの失敗のために私の人生には暗い陰が落ちている!」そういうことが決してないのです。

 十字架のイエス様のお姿を見、また復活なさったイエス様のことを知って、「しまった!」と思った人々がいました。けれども、それは決して手遅れではありませんでした。その人々も心から悔い改めて、救われたのです。今日の御言葉も、そういうことを私たちに伝えているのではないかと思います。これは本当に感謝なことですね。私たちは愚かで、弱いですから、後になって「しまった!」と思うことがよくあるのです。けれども、それは決して「後の祭り」ではありません。本当に心から悔い改めて、立ち返る時に、神様は私たちを何度でも立ち上がらせて下さいます。

 けれども同時に、その時、悔い改めて救われたのは、そこにいた全ての人々ではなかったということも、私たちは覚えておかなければなりません。心を頑なにし、その時にも悔い改めることがなかった人々も実際にはいたのです。残年ながら彼らには、文字通り、「あなた方は罪のうちに死ぬ!」という言葉が実現したのではないでしょうか。

 イエス様は、今日も私たちを熱烈に招いて下さいます。「私の十字架は、他でもないあなたを救うためにあった!あなたは罪のうちに死んではいけない!あなたには私の救いがどうしても必要ではないか!だから、あなたも、今日、悔い改めて、立ち返るように!」と主は今日も私たちの心の扉を熱心に叩き続けておられます。

 この招きを聞いて、皆さんはどう受けとめられるでしょうか。「私は既にイエス・キリストを救い主として受けとめているから大丈夫!この招きは私には関係ない!」と思っている方が案外多いのではないかと思います。しかし、それはとんでもない勘違いです。私たちは、イエス・キリストを既に知っています。けれども、なお私たちは、それぞれに様々な弱さを抱えているのではないかと思います。もう完璧で、何も付け加える必要はない。そんな人は一人もいません。私たちは、それぞれに色んな弱さを抱えている人間として、今日もここにやって来たのです。それにも関わらず私たちは、「悔い改めれば、いつでも赦してもらえるのだから、そんなに急ぐ必要はない!」と呑気に構えてしまうことがある。それでは駄目なのです。今日という日に、真剣に悔い改めて、立ち返るのでなければ、永遠にその機会が失われてしまうことがある。罪に打ち勝つことが出来ない人間として、神様を愛する力の弱い人間として、隣人を愛する力の少ない人間として、私たちは、なお今日という日に、もう一度、新鮮な思いで、魂の奥深くにイエス・キリストをお迎えしなければなりません。

 私たちには皆一人一人、神様が定めて下さった時があります。「今こそ、その時なのだ!」という神様の時がそれぞれにあるのです。「あなたはどこにいるのか?!悩んで、苦しんで、藻掻いて、どうすることも出来なくて、愛を求めているあなたは、いったいどこにいるのか?!」神様が私たちの心の扉を激しく叩いて下さる時があるのです。どうか、その時を見逃さないように、神様の御声を聞き逃さないように、目をこらし、耳を澄まして、その時をしっかりと見極めていただきたいと思います。

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