日曜朝の礼拝「渇ける者への招き」

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渇ける者への招き

日付
説教
吉田謙 牧師
37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。39 イエスは、御自分を信じる人が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降(くだ)っていなかったからである。
ヨハネによる福音書 7章37節-39節

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」この御言葉は、本日、礼拝の最初に「招きの言葉」としてお読みした旧約聖書イザヤ書55章1節の御言葉に基づいています。そこにはこう言われていました。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」イザヤ書55章1節の御言葉です。

 ここには、主なる神様が渇きを覚えている者をご自分のもとに招き、水を与えようとしておられることが語られています。ここで大事なのは、「銀を持たない者も来るがよい」と言われていることです。主なる神様は、「銀を払うことなく」「価を払うことなく」、つまりタダで、ぶどう酒と乳とを与えて下さる、と言うのです。この神様の御心に基づき、神の独り子であられるイエス・キリストも、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と招かれたのでした。ここで「だれでも」と言われていることが重要です。イエス・キリストは、誰にでも、タダで、生きた水を飲ませて下さいます。この水を飲むのに、特別な資格など必要ありません。品行方正で、きちんとした生活をしている清く正しい人でなければ、この水を飲ませてもらえない、ということではありません。渇いている人なら、誰でもイエス・キリストのもとに来て、生きた水を飲むことができるのです。ただし、そのために一つだけ求められていることがあります。それは、「わたしのところに来る」ということです。この水を求めて、イエス様のところに来さえすれば、イエス様が恵みによって生きた水を与えて下さる、と言うのです。

 またイエス様が与えて下さるこの水は、私たちの渇きを一時癒すだけのものではありません。その水を飲んだ者は、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言うのです。つまり、この水を飲んだ者自身が水の源となり、周囲をも潤していくのです。

 そもそも仮庵祭の時に、このような水汲みの儀式が行われたのは、あの荒れ野の四十年の旅路の中で、水がないとイスラエルの民が嘆いた時に、モーセが杖で岩を打つと、そこから水が溢れ出たという出来事を思い起こすためでした。そして、人々はこの水汲みの行事を行うことによって、やがて来る救い主は、これと同じように人々の渇きを満たし、世を潤して下さるに違いないと期待していたのです。そして、この人々の期待は、将に、イエス・キリストによって実現したのでした。

この福音書を書いた福音書記者ヨハネは、39節のところで、このイエス・キリストが与えて下さる命の水こそ、聖霊なのだと解説しています。では、何故、聖霊が与えられたならば渇きが癒されるのでしょうか。いや、それ以前に、そもそも聖霊とはいったい何でしょうか。聖霊とは、私たちの心の内に働きかけて下さる神様のことです。このヨハネによる福音書には、聖霊がイエス・キリストのことを悟らせて下さるお方であることが明確に語られています。「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」ヨハネによる福音書14章26節の御言葉です。聖霊なる神様は、イエス様がどんなお方であるかについて、私たちの目を開き、イエス様の素晴らしさを私たちの心に刻み込んで下さいます。そうやってイエス様の素晴らしさが分かれば、神様の素晴らしさも分かる。これはヨハネによる福音書が、これまでにも何度も語ってきたことでしょう。

 聖霊が与えられる時に、イエス様が分かり、神様が分かる。神様が私をどれほど愛していて下さるかが分かるのです。神様に敵対し、神様を無視してきた私たちです。滅ぼされても何も文句が言えないような私たちであります。けれども神様は、私たちが生きることを望まれました。「あなたは生きよ、命を受けよ!」と、私たちの罪の全てを御子イエス・キリストに背負わせ、十字架へと向かわせて下さったのです。ですから、私たちに対する神様の怒りや呪いは、もうひとかけらも残っていません。私たちと神様との間には、完全なる和解が与えられたのです。聖霊なる神様は、私たちに、そのことを悟らせて下さいます。頭ではなくて、心で、私という存在全体で、この神様との和解を、聖霊は受けとめさせて下さるのです。そして、この神様との和解こそが、私たちの心の最も奥底にある渇きを癒してくれるのではないかと私は思います。

 有名な詩編23編1節に、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」という御言葉があります。以前、あるご高齢の方から、この御言葉を読みながら、「私は色んなものを失いましたが、本当にこの通りですね」という意味のことをお聞きしました。確かに、年をとるということは、色んなものを失っていくことでしょう。健康を失い、愛する者を失い、やがては自分自身の命をも失っていく。しかし私たちが、イエス・キリストを私の羊飼いとして受けとめることが出来るならば、たとえ色んなものを失ったとしても、私には何も欠けることがない!これは本当にその通りだ、と多くの方々が今も味わっていることではないかと思います。何故でしょうか。それは、私たちの魂が飢え渇いているのは、そういう様々なものを失っていくことに原因があるのではなくて、やはり私の羊飼いがいないことに根本的原因があるからです。私たちのことを本当に心配しておられるお方、私たちを掛け替えのない大切な存在として本当に愛しておられるお方、私たちをあらゆる危険から守り、養い育てて下さるお方、そういう羊飼いがいない時に、私たちの魂は飢え渇くのです。けれども、主が私たちの羊飼いとなって下さる時に、私たちの魂は、青草の原、憩いの水のほとりで満ち足りることが出来ます。たとえ色んなものを失ったとしても、私には何も欠けることがない。死ぬ時も、死の後も、私たちには、この羊飼いなるイエス様がいつも共にいて下さるからです。これがクリスチャンの生き方ではないかと思います。

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