日曜朝の礼拝「神から出た教え」

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神から出た教え

日付
説教
吉田謙 牧師
17 この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。
ヨハネによる福音書 7章14節-18節

 ここでイエス様は、「私の教えが神様から直々に授かった教えであることが分からないのは、あなた方が神の御心を行おうとしていないからではないか!」と指摘されたのです。「神の御心を行おうとする」というのは、「神の御心を行いたいと願っている」ということです。神様の御心を完璧に行える人など誰もいません。もし、ここでそういうことが求められているのなら、私たちは皆肩を落として、この場から立ち去らねばならないでしょう。けれども、ここでは神様の御心が行えるかどうかではなくて、神様の御心を行いたいと願っているかどうかが問われているのです。「神様が教えられるように生きてみたい!」こう願うことは、私たちにも出来ることでしょう。そして、そのように願っているならば、その人には、イエス様の教えが神様から出たものであることが分かるはずだ、と主は言われるのです。これはとても大切なことではないかと私は思います。イエス様の教えが分かるかどうかは、頭の善し悪しで決まるのではありません。それは、むしろ聞く側の態度が問題なのだ、と言うのです。要するに神様の御心を行いたいと願いながら聞いているかどうかが問題なのです。これは、今、求道中の方々にとって、しっかりと受けとめるべき御言葉ではないかと私は思います。イエス様の教えは、本当に神様から出た教えなのでしょうか。それとも一人の宗教家の打ち立てた一つの説に過ぎないのでしょうか。そのことが分かる決め手は、聞く側の人間の態度にかかっている、と言うのです。神様の御心を行いたいと願っているかどうか、もう少し一般的な言い方をするならば、真実に生きたいと願いながらイエス様の教えを聞いているかどうかが問題なのだ、と言うのです。自分の欲望をかなえたい。自分のやりたいことを、やりたい時に、やりたいようにやってみたい、そのためにキリスト教は役立つだろうか、もしそんな気持ちで聞いているならば、おそらくその人にはイエス様の教えは一生かかっても理解できないでしょう。けれども、自分の願いを達成するためにキリスト教が役立つかどうかではなくて、そういう次元を遙かに越えた、このことのためなら自分自身を捧げてもかまわないと思えるような真理が、ここにあるのかどうかを真剣にたずね求めながら、このイエス様の教えを聞くならば、その人にはこれがただの宗教家の教えではないことがよく分かるはずです。神様から出た教えであることがよく分かるはずなのです。

 これは求道中の方々だけではなくて、クリスチャンにとっても大切なことでしょう。私たちは、聖書を通してイエス様の教えを聞き続けています。しかし、これが本当に分かるためには、私たちが神様の御心を行いたいと真剣に願っていなければならないのです。ただ一所懸命、聖書の勉強をすればいいというわけではありません。日曜日の礼拝に臨むために、予め聖書の御言葉を読んで予習する方がいらっしゃいます。それもとても大切な心掛けでしょう。けれども、それよりももっと大切なことがあるのです。それは、それぞれの一週間の具体的な生活の中で、神様の御心を行いたいと願いつつ、戦っているかどうかです。一週間をただなんとなくぼんやりと過ごし、日曜日に礼拝にやって来たとしても、イエス様の教えは本当の意味で心に響いてきません。けれども、一週間の具体的な生活の中で、神様の御心を行うために必死で戦い、そのために体と心はボロボロになっていたとしても、そういう仕方で日曜日の礼拝に臨んだならば、イエス様の教えは私たちの心に必ず響いてくるはずです。

 三浦綾子さんの小説の中に「塩狩峠」という小説があります。この小説は、明治42年に実際に起こった出来事をもとにして、三浦綾子さんが書いたものなのです。主人公の永野信夫という人は、ある日、路傍伝道をしていた伝道師の話に感動し、クリスチャンになる決心をしました。その伝道師から「あなたはイエスを神の子と信じるのですか?キリストに従って一生暮らしていくつもりですか?人前で、自分はキリストの弟子だと言うことが出来ますか?」と質問されました。彼は、この質問に対しては、きっぱり「出来ます!」と答えました。しかし最後に、「あなたは自分が罪深い人間だと思いますか?自分の罪のためにキリストが十字架にかかったことを知っていますか?」と尋ねられると、この質問にははっきり答えることが出来ませんでした。というのは、この時の彼は、まだ自分はどちらかというと、まじめな部類の人間に入るのではないか、と思っていたからです。そのことを察した伝道師は、主人公に向かって言いました。「聖書の中のどれでもいい、ひとつ徹底的に実行してみませんか。そうすると、あるべき人間の姿に、いかに自分が遠いものであるかが分かるはずです。」と。彼は、この伝道師のアドバイスを聞いて、早速それを実行に移します。彼は、「隣人を自分のように愛しなさい!」という御言葉を選び、それを実践しようと決心するのです。彼の職業は鉄道員で、ちょうどその時、職場のある人間が、ついつい出来心で給料泥棒してしまったという事件が起こったばかりでした。彼は、この給料泥棒をしてしまった同僚の隣人になろうと決心したのです。その時から、同僚に仕える日々が始まりました。同僚のためにかけずり回り、なんとか同僚は鉄道員を辞めさせられずに済みました。けれども、その同僚は遠くに転勤になってしまいます。主人公は、その時、同僚に付いていくべきかどうかで迷いました。というのは、彼には病気で入院している婚約者がいたからです。同僚に付いて行くことは、彼女から離れることを意味します。けれども彼は、その痛みを乗り越えて、同僚に付いて行く決心をするのです。しかし、そんなに大きな犠牲を払ってまで同僚のために仕えた主人公を待ち受けていたのは、同僚の無理解、誤解、批判、罵声でした。主人公は、その時、同僚を憎んでしまったのです。「どうして、こんなに尽くしているのに分かってくれないのか?!」彼は心の中で同僚を罵り、彼の心の中は、この時、同僚への憎しみで一杯になってしまいました。そして、その時にようやく気づいたのです。自分がいかに傲慢であったか、ということを。「自分は友人を愛するどころか、最初から友人を見下し、上から目線で彼を見下ろして、助けてやろうと思っていた。結局、自分は自己満足のために彼を利用していたに過ぎなかったのではないか!自分はなんと罪深いのだろう。なんと無力なのだろう。この私の罪のために、キリストは十字架の上で死んで下さったのか?!」その時にやっと彼は分かった、と言うのです。私たちが神様の御心を真剣に行いたいと願い、それに真剣に取り組む時に、私たちは、自分の内側には、そのような力がないことを思い知らされます。その時に、イエス様の教えは、私たちの心に響いてくるのではないでしょうか。

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