日曜朝の礼拝「あなたがたも離れて行きたいか」

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あなたがたも離れて行きたいか

日付
説教
吉田謙 牧師
67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」70 すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」
ヨハネによる福音書 6章60節-71節

 このところ私たちは、イエス様が、ご自身の十字架の贖いについて、衝撃的な言葉をもって説き明かされた場面を学んできました。今日の箇所には、このイエス様の説き明かしを聞いて、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか?!」と言って、多くの弟子たちがイエス様のもとを離れて行った、と言われています。その時にイエス様は、十二人の弟子たちに向かって、こう言われたのです。「そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた。」(67節)。

 イエス様は、多くの弟子たちがイエス様のもとを離れ去る中で、ご自分の近くにいる十二人の弟子たちに、信仰の再決心を促されたのです。「あなた方はどうなのだ!あなた方も離れて行きたいか?!それとも、私のもとにとどまり続けたいか?!」と。このイエス様の問いかけに答えて、十二人を代表してペトロが答えました。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(68節)。

 これは、とても素晴らしい信仰告白です。では、こんなにも立派な信仰告白をした弟子たちは、その信仰を貫き通すことが出来たでしょうか。残念ながら、彼らはやがてイエス様を裏切り、イエス様を見捨てて逃げてしまったのです。ペトロは、「他の者があなたを捨てても、私だけは決してあなたを捨てません。決して離れません!」と断言しました。けれども、彼はその直後に、「イエスなど知らない。自分はイエスの仲間ではない。あなたの言っていることはさっぱり分からない!」と三度もイエス様を否んでしまったのです。ペトロだけではありません。皆、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。これがイエス様の十字架を目の当たりにした時の十二人の弟子たちの嘘偽らざる姿でした。ペトロは決して嘘をついていたわけではないでしょう。彼は、その時には心からそう思っていたはずです。けれども、その決意はあえなく崩れ去ってしまいました。何故でしょうか。それは肉の力、人間の力に頼っていたからです。イエス様はこう言っておられます。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。」(63節)。

 ここで言う「霊」というのは「聖霊」のことです。また「肉」というのは、「生まれながらの人間」という意味です。生まれながらの人間の力であっても、一時的に信仰を保ち、熱心に励むことは出来るでしょう。しかし、それは決して長続きしません。必ず途中で挫折してしまうのです。確かにペトロは立派な信仰告白をしました。これは神様がペトロの口に与えて下さった信仰の言葉でしょう。しかし、同時に、この信仰告白には、ペトロの頑張り信仰もこびり付いていました。多くの弟子たちがイエス様のもとから、次から次へと離れ去って行ったのです。けれども「自分だけは何としても踏みとどまり、最後までイエス様に付き従っていきたい!」このようにペトロは決心したのでした。これは本当に尊い決心です。しかし、ペトロはその力を、どこに求めたでしょうか。やはりそれは肉の力、自分の力だったのです。イエス様は、そんなペトロと弟子たちの心をちゃんと見抜いておられました。そして、そういう彼らに対して、イエス様はこう諭されたのです。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。」(70節)と。「あなたが自分の力で頑張り、私を選び、私に従い続けていくのではない!まず私があなたを先に選び、あなたをここまで導き続けてきたのではないか?!」このようにイエス様はペトロと弟子たちを諭されたのでした。その後に語られたイエス様のお言葉は、非常に衝撃的な言葉です。「ところが、その中の一人は悪魔だ。」(70節後半)。ヨハネはこの後すぐに、それはイスカリオテのシモンの子ユダのことであったと解説を加えています。これは、後になって振り返ってみると、そういうことだったとヨハネが理解したことであって、この時には誰もそのことは知りませんでした。イエス様もこの時、それはイスカリオテのユダのことであるとは言われなかったのです。最後の晩餐の席で、イエス様がこの中に裏切り者がいると指摘なさった時でさえ、弟子たちは「主よ、まさかそれは私ではないでしょうね」と口々に言った、と言うのです。つまりイエス様は、ユダが裏切るからと言って決して差別はなさらなかった、ということです。他の弟子たちと同じように最後まで愛し抜かれたのです。今日のところでも、「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。」と言われています。十一人ではないのです。十二人です。やがて裏切ることになるユダをも含めて十二人を私が選んだ、と言われているのです。これは凄いことですね。イエス様は、最後の最後までユダを愛し抜かれたのです。もしイエス様が分け隔てをされていたならば、きっと他の弟子たちは気が付いていたでしょう。「どうもおかしい。最近、イエス様のユダに対する態度がやけに冷たい。もしかするとユダが裏切り者ではないか?!」このようにすぐに分かってしまったと思います。逆に、弟子たちに全く気づかれなかったということは、イエス様は最後の最後まで、弟子の一人一人を同じように分け隔て無く愛し抜かれた、ということでしょう。ですから、今日の箇所で「その中の一人は悪魔だ!」とイエス様が言われたのも、決して裁き落とすための言葉ではありません。「あなた方の誰もが悪魔になり得る!だから自分の力で信仰が勝ち取れるかのように思い上がってはならない!もっと謙遜になって、悔い改めるように!」これは、イエス様が全ての弟子たちに呼びかけられた愛の言葉ではなかったかと私は思います。

 事実、マタイによる福音書16章13節以下には、ペトロが今日の箇所のように素晴らしい信仰告白をしたすぐ後で、「サタンよ、退け!」と厳しく叱られている記事があります。どうして叱られたのかと言うと、イエス様が十字架に上げられることについて語り始められた時、ペトロは「そんな馬鹿なことは言わないで下さい」とイエス様を諭し、押しとどめようとしたからです。ペトロも「サタン!」「悪魔!」と呼ばれたのです。決してユダだけではありません。みんな悪魔と呼ばれる可能性を秘めているのです。そして、結局、そういう私たち一人一人の罪を贖うために、イエス・キリストは十字架の上で死んで下さったのでした。

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