日曜朝の礼拝「引き寄せてくださる神」

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引き寄せてくださる神

日付
説教
吉田謙 牧師
44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
ヨハネによる福音書 6章41節-47節

 この「引き寄せて下さる」という言葉は、重い荷物を引きずり上げる、という意味の言葉です。主なる神様は「絶対に神など信じない、キリスト教など信じない!」と頑なに拒んでいる人であっても、やがてその頑なな心を打ち砕き、その重い腰を持ち上げて、引き寄せることの出来るお方なのです。

 かつてはキリスト教を嫌い、「宗教は阿片だ!」と嘯いていた人が、大きな挫折を経験し、不思議な仕方でイエス・キリストを信じるように導かれていった!私たちはこういう証しをよく聞くのではないかと思います。私たちの教会にも、そういう方々が何人かいらっしゃいます。「あの人もこの人もそうだ!いや自分もかつてはそうだった!」と、皆様も思い起こすことが出来るのではないかと思います。かつてはキリスト教を信じることなどあり得ないと思っていた人が、今は当たり前のようにして礼拝に集っておられます。これは将に奇跡ではないかと思います。このように神様は、どんなに頑なな心であっても、それを打ち砕くことが出来る。その壁を打ち破り、必ず引き寄せて下さるのです。

さて、この父が引き寄せて下さるという時に、父なる神様はどのようにして私たちを引き寄せて下さるのでしょうか。先程も確認しましたように、この「引き寄せる」という言葉は、重い荷物を引きずり上げる、という作業を言い表す言葉でした。では、私たちは、嫌々信仰の道に引きずり込まれるのでしょうか。決してそうではありません。それは、私たちが洗礼を受けた時のことを思い起こせば、よく分かるのではないかと思います。私たちは、嫌々洗礼を受けたのではなくて、私たちの意識の中では、やはり喜んで「洗礼を受けたい!」と願ったのではないでしょうか。イエス様は、このことについて、45節のところで、このように教えられました。「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。」(45節)。

 父が引き寄せて下さるというのは、信じたくないのに無理矢理、首に縄を付けられて引っ張ってこられる、ということではありません。神様が教えて下さるのだ、と言うのです。

 宗教改革者カルヴァンは、この「引き寄せる」ということについて、このように説明しています。「その引き寄せるやり方は、人々が外面的な力によって強制させるといった暴力的なものではない。むしろ、それは、効果的な聖霊の働きであり、それによって以前には望まなかった人々が、進んで望むようにされるのである。」

 神様が引き寄せて下さるというのは、こういう仕方を言うのです。神様が教えて下さるのです。知識として教え込むというのではなくて、私たちの心に聖霊が働きかけ、私たちの望まなかった意志を望むように変えて下さる、そのようにして引き寄せて下さるのだ、と言うのです。

 45節の後半にイエス様は「父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。」と教えられました。神様から直接教えられた人々は、それで満足するわけではないのです。「父から教えられた人は、必ずわたしのもとに来る」とイエス様は教えられました。何故でしょうか。46節にはこう言われています。「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。」

 神様から直々に教えられることも、確かにあるでしょう。祈る時に、あるいは日常の具体的な生活のただ中で起こり来る様々な出来事を通して、私たちの心に神様の教えが直接に響き渡ることも確かにあるのです。けれども、神様のお姿を見るほどに鮮やかにこの神様のことを知ろうとするならば、やはりそれだけでは駄目なのです。イエス様だけが父をご覧になったお方として、父のことをはっきりと表わすことが出来る。後の方でイエス様はこう言われました。「わたしを見た者は、父を見たのだ。」(ヨハネによる福音書14章9節)。父なる神様は、人間の目で見ることは出来ません。けれども、イエス・キリストが肉となってこの世に来て下さったことによって、私たちも神様を見ることが出来るようになり、神様と共に生きることが出来るようになったのです。これは本当に感謝なことではないかと思います。

 使徒パウロは、このイエス様との出会いによって、真実の神様のお姿を知った代表的な人ではなかったかと思います。かつてパウロは、先頭に立ってキリスト教会を迫害していた人でした。ところが、ダマスコという町にある教会を迫害するために、意気揚々と道を進んでいる時に、彼は復活のイエス・キリストと出会い、自分が将に神様から遣わされた救い主に敵対し、神の民の群れを迫害していたことを告げ知らされたのでした。その時に、彼は、それまで自分を支えてきた土台が、ガラガラと音をたてて崩れ去る経験をしたのです。自分の誇り、プライドの土台が崩れ去り、奈落の底に真っ逆さまに落ちていく経験であります。けれども、将にその時に彼は、そんな自分をも決して見捨てず、しっかりと支え、抱きしめて下さるイエス・キリストと出会ったのです。パウロは、このイエス・キリストを通して、真実の神様のお姿を知ったのでした。こうしてパウロは、打ち震えるような感動を覚えながら、自ら進んで、キリストの福音を宣べ伝える伝道者になっていったのです。神様が私たちを引き寄せて下さるというのは、こういう仕方なのです。強引に首根っこをつかんで引っ張るのではありません。どんなに神様に敵対している人であっても、この神様の素晴らしさをその心の奥底にまで染み渡らせ、感動に打ち震えて、自ら進んで神様に従う者へと造り変えて下さるのです。

 私たちが常日頃、「救われて欲しい!」と祈り求めている愛する者たちにも、神様はきっと、こういう仕方で臨んで下さるに違いありません。必ず引き寄せて下さるはずです。私たちには、神様が計画されているその時は分かりません。ですから、しばしば不安になることもあるでしょう。けれども、必ずその時は来ます。「父から教えられた人は、必ず主イエスのもとに来る」のです。その時まで、決して諦めることなく、確信と希望をもって祈り続けたいと思います。

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