日曜朝の礼拝「わたしだ、恐れることはない」

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わたしだ、恐れることはない

日付
説教
吉田謙 牧師
 16 夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。17 そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。・・・
20 イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」ヨハネによる福音書 6章16節-21節

 17節で「暗くなっていたが」と翻訳されている言葉は、「暗闇になっていたが」という言葉です。この暗闇という言葉は、ヨハネによる福音書においては、人生の暗闇を言い表す特別な言葉なのです。また、ここでは弟子たちは舟に乗って湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとしたと言われています。この「行こうとした」という言葉は、これから行くというのではなくて、もう行こうとして舟は進んでいる、舟はもう湖に漕ぎ出している、という進行形の言葉です。そういう言葉に続いて、「既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった」と言われているのです。船着き場に船が停泊している時に、まだ来ておられないということなら分かりますが、もう船は湖に漕ぎ出しているのです。しかも、周りは真っ暗闇です。そういう真っ暗闇の湖に漕ぎ出した舟の上に、イエス様が「まだ来ておられない」と言う。これはどう考えてみてもおかしなことですね。こういう場合は、「イエス様は舟に乗り遅れたので来られなかった」と書くのが普通でありましょう。ところが、ヨハネによると、暗闇の時はイエス様が来て下さる時なのです。ヨハネの気持ちからすると、この人生の暗闇の時にこそ、イエス様は来て下さるはずなのです。  今日の御言葉で、もう一つ注目したいことがあります。それは、イエス様が弟子たちに向かって「私だ。恐れることはない」と語りかけて下さった、ということです。

 この「私だ」という言葉は、ギリシャ語原文では「エゴー エイミー」という言葉になっています。旧約聖書は本来ヘブライ語で書かれていました。ところが、キリスト教がギリシャ世界に広まっていった時に、これがギリシャ語に翻訳されたのです。その時に、神様のお名前を表す言葉として、この「エゴー エイミー」という言葉が用いられたのでした。出エジプト記の3章14節のところには「私はある。私はあるというものだ!」という神様がモーセに対して自己紹介した記事が記されています。この「私はある」という神様のお名前が、ギリシャ語で翻訳された聖書では「エゴー エイミー」という言葉で翻訳されたのです。

 つまり、嵐の海でイエス様が「私だ!」「エゴー エイミー!」と言われたというのは、「私は、旧約の時代からずっと人々が信じ続けてきた主なる神の独り子なのだ!」と自己紹介されながら、嵐の中で悪戦苦闘している弟子たちに近づかれた、ということなのです。

 弟子たちを襲っている嵐、荒れ狂う水は、すべてを飲み込み、破壊し、世界を無秩序と混沌へと突き落とす、強大な力を意味しています。イエス様は、この人間の力ではどうにも抗うことが出来ない強大な力さえも、ものともせずに、荒れ狂う波の上を歩いて弟子たちに近づかれました。そして、こう告げられたのです。「エゴー、エイミー!」「わたしだ!」「天地を造られた唯一の神の独り子である私が共にいる。だから恐れることはない!」と。

 イエス・キリストを信じたからと言って、人生の暗闇や嵐が一切無くなるわけではありません。私たちの人生には、暗闇や嵐が付き物です。けれども、その人生の暗闇や嵐のただ中にあっても、天地を造られたまことの神の独り子であるイエス・キリストが、私たちに近づき、「恐れることはない」と言って下さいます。だから大丈夫なのです。たとえ暗闇や嵐に遭遇し、私たちにはどうにも抗うことが出来なかったとしても、私たちに近づき、「恐れるな」と呼びかけて下さるこのイエス・キリストの存在に気づくことさえ出来れば、もう大丈夫です。安心なのであります。何故ならば、このお方は、天地万物を造り、今もその全てを統べ治めておられる全能の神、唯一の生ける真の神の独り子だからです。

 私たちは、本当に弱く、愚かであり、不信仰ですから、困った状態になると、目の前の困難に目を奪われて、とても安心など出来ない状態に陥ってしまいます。この時の弟子たちは、将にそういう状態だったのではないでしょうか。けれども、私たちが不信仰であろうと、弱い者であろうと、イエス様が共にいてくださるという事実は、何ら変わりません。主は、私たちが弱かった時に、不信心であった時に、敵であった時に、既に私たちを救うために十字架に命を投げ出して下さいました。それほどまでに私たちのことを、価高く、尊い存在として、愛し抜いて下さるのです。そして、このイエス様の愛は、決して変わることがありません。どんなに落ちぶれても、頑張りがきかなくなっても、決してお見捨てにはならない。ずっと一緒にいて、私たちを背負い続けて下さるのです。このイエス様の愛を堅く信じ、委ねることさえ出来れば、たとえどのような苦難が襲ってこようとも大丈夫です。安心なのであります。

 今将に人生の暗闇、嵐の只中にある方も、どうか安心して下さい。今朝、イエス・キリストは、あなたに向かって「エゴー、エイミー!私だ!恐れることはない!」と語りかけて下さいます。主は、あなたが気づいていなくても、いつもあなたと共にいて下さいます。そして、人生の暗闇の時、嵐の時にこそ、私たちの思いを遥かに超えた仕方で、そのお姿を明らかにして下さるのです。

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