日曜朝の礼拝「主イエスを証しする聖書」

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主イエスを証しする聖書

日付
説教
吉田謙 牧師
39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。40 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。・・・ 45 わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。
ヨハネによる福音書 5章37節-47節

今日の箇所には、イエス・キリストこそ救い主であることを、他でもない聖書が証ししている、と語られています。ここで言う「聖書」というのは旧約聖書のことです。イエス様が活躍しておられた頃は、まだ新約聖書が出来ていない時代ですから、聖書と言えば、当然、旧約聖書のことを意味していました。その旧約聖書は、私のことを証しする書物なのだ、とイエス様は語られたのです。このことは最後の方の45節以下にも繰り返し語られています。「あなたたちユダヤ人を、神に背いている者として父なる神様に訴えるのは私ではなくて、むしろあなたたちが頼りにしているモーセなのだ!」と。モーセは、旧約聖書の最初の部分、創世記から申命記までの五つの書を書いたとされています。その部分は「律法の書」と呼ばれ、旧約聖書の中心とも言うことが出来るでしょう。その律法を主なる神様から授かり、イスラエルの民に与えたのが、他でもない、このモーセでした。ユダヤ人たちは、このモーセを頼りにしていたのです。彼らは、自分たちはモーセの教えに忠実に生きていると自負していました。しかしイエス様は、あなたたちが信頼しているモーセがあなたたちを訴える、と言われたのです。これは即ち、ユダヤ人たちは、モーセの教えを誤解している、聖書から神様の御心を正しく読み取ることが出来ていない、ということでしょう。

 ユダヤ人たちとイエス様とでは、律法の、また旧約聖書の読み方が全く違っていました。では、その違いは、いったいどこにあったのでしょうか。ユダヤ人たちは、神様がお与えになった律法を、人間が守り、行うことによって正しい者となり、それによって救いを獲得することができる、と考えていました。つまり、人間が自分の努力や力で救いを獲得するために、神様から律法が与えられている、と考えていたのです。それに対してイエス様は、全く違う観点から、この律法を見つめておられました。そもそも、イスラエルの民は、何故、神様に選ばれ、救われたのでしょうか。他の民族に比べて、秀でた何かがあったからでしょうか。ユダヤ人たちが考えているように、律法を厳格に守り通したから、彼らは神様に選ばれ、救われたのでしょうか。決してそうではありません。むしろモーセは、このイスラエルの民の実態を、このように語っています。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」(申命記7:7以下)。また別のところではこうも言われています。「あなたはかたくなな民である。あなたは荒れ野で、あなたの神、主を怒らせたことを思い起こし、忘れてはならない。あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた。」(申命記9:6以下)。

 このように、イスラエルの民が神様から特別に選ばれ、救われたのは、彼らの功績によるのではなくて、ただただ主なる神様の憐れみの御心によるものだったのです。現に、十戒を中心とする律法が与えられたのも、イスラエルの民が神様の一方的な憐れみによってエジプトの奴隷状態から解放された後のことでした。律法は、救われるための条件ではなくて、神様の一方的な恵みによって救われたイスラエルの民が、感謝をもって、神様に従って生きていくための指針として与えられたものなのです。イスラエルの民に律法を与えたモーセも、そのことを人々に教え、諭していました。そしてこのモーセが証しした、神様の恵みと憐れみによって与えられる救いが、決定的な仕方で実現したのが、あのイエス・キリストの十字架と復活の出来事だったのです。神の独り子であるイエス・キリストが、人間となってこの世に来て下さり、私たちの罪を全部背負って十字架の上で死んで下さいました。そのことによって、私たちの罪の赦しが実現したのです。そして、その御子イエス・キリストを父なる神様が復活させて下さり、そのことによってイエス・キリストを信じ、イエス・キリストに結ばれた私たちも、永遠の命に生きることが出来るようになったのです。私たちは、自分の清さや正しさ、良い行いによってではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義とされ、救いにあずかることができるのです。このイエス・キリストによる救いは、将に神様の憐れみと恵みによる救いの完成、その実現と言えるでしょう。モーセが旧約聖書において語り、民に与えた律法は、このイエス・キリストによる救いを証しし、指し示していたのです。

 このようにユダヤ人たちは、聖書を正しく読むことができず、律法主義に固執するあまりに、本当に大切なものを見失ってしまいました。現にベトザタの池で38年間も病気で苦しんでいた人を、イエス様が安息日に癒された時に、彼らは「ああ良かった!良かった!」と、その人と一緒に喜ぶのではなくて、なんと癒しの御業をなさったイエス様のことを「律法違犯だ!」と糾弾したのです。とんでもないことですね。明らかに、この時、彼らには、神様の御心が見えていませんでした。「あなたたちは、モーセの律法を守り、神様を愛していると思っているけれども、実は神様を愛しているのでもないし、モーセの律法を正しく守っているのでもない。あなたたちは神様からの誉れを求めず、人からの誉れを求めているだけだ!」こう言ってイエス様は、彼らの過ちを厳しく指摘なさったのでした。

 本来、私たちは、人からの誉れではなく、唯一の神様からの誉れを求めるべきでありましょう。何よりも、まず神様に喜んでいただき、受け入れていただくことが肝心です。では神様はどのような者を喜び、受け入れて下さるのでしょうか。それは決して律法をきちんと守り、おこなっている人ではありません。そうではなくて、自分のいかなる罪や弱さにもかかわらず、神様がこの自分を、独り子の命を与えて下さったほどに愛しておられることを信じ、この神様の憐れみに応えて、何度失敗しても、諦めることなく、御心に従って生きていこうと闘っている人のことです。神様からの誉れを求めるとは、こういう信仰に生きる、ということでしょう。そして、そうやって神様の大きな大きな愛に包まれながら生きていく中で、私たちは自然と神様への感謝に満ち溢れ、神様を愛し、人を愛して生きる者へと少しずつ造り変えられていくのです。

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