日曜朝の礼拝「御子についての証し」

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御子についての証し

日付
説教
吉田謙 牧師
36 しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。
ヨハネによる福音書 5章31節-36節

 イエス・キリストが救い主であることは、いったい何によって証しされるのでしょうか。それはキリストの業なのだ、と言うのです。イエス・キリストが行われる業そのものが、キリストが救い主であることを証ししているのです。では、キリストの業とは、いったいどういう業なのでしょうか。今日の箇所の直前のところには、二つの奇跡物語が記されていました。一つは死にかかっている息子が癒されたという奇跡です。イエス様が「あなたの息子は生きる」と一言言っただけで、死にかかっている息子が癒されたのです。本当に驚くべき御業です。もう一つの奇跡は、38年間も病気が治らなかった人が、イエス様に一言「起きあがりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われただけで病気がすっかり治り、床を担いで歩き出したという奇跡です。これも驚くべき業ですね。

 しかしイエス様は、「これらのことよりも、もっと大きな業を父は私にお示しになる。それを見たならば、みんなが驚くことになるだろう!」と先週学んだ20節のところで語っておられました。では、これらの奇跡よりも、もっと大きな業とは、いったい何でしょうか。24節のところには、こう言われていました。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」

 奇跡の業よりも、もっとみんなが驚く大きな業、それは信じる者に永遠の命が与えられる、という業でした。24節の一番最後には、「死から命へと移っている」と言われています。これは死んだ後に天国の切符がもらえるということではありません。今という時に、私たちイエス様を信じる者は、みんな死から命へと移っている、永遠の命に生き始めている、と言うのです。

 では、実際にこの永遠の命は、私たちの生活に、どのようにして現れてくるのでしょうか。この「永遠の命」について、この福音書の後半のところで、このように言われています。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(17章3節)。この「知る」という言葉は、知識として知るというよりも、「知り合いになる」「人格的に深く交わる」という知り方を言います。これは、「愛する」という言葉で言い換えてもよいような知り方でありましょう。神様と深い人格的な交わりを結ぶ、という仕方で神様を知る時に、あなた方は既に永遠の命に生き始めている、と言うのです。神様に愛され、神様を愛するという仕方で神様と結ばれる時に、私たちは既に永遠の命を生き始めているのです。

 私たち一人一人の内にも、そういう永遠の命の輝きが与えられているはずです。様々な苦しみや悲しみの中で、神様に愛されている喜びに支えられながら、必死で生きている方々が、私たちの教会にも大勢いらっしゃいます。永遠の命がその人の内側で始まっているのです。ですから、激しい試練がやってきても、それに押しつぶされずに喜んで生きることが出来るのです。

 「証し」という言葉を聞く時に、よく拒否反応を起こす方がいらっしゃいます。「私のような、できの悪いクリスチャンには、到底「証し」など出来ません!」と。しかし、果たしてそうでしょうか。そもそも「証し」とは何でしょう。「証し」とは、自分の立派さを宣伝することではありません。自分に働いておられる神様のことを紹介することです。確かに、しゃべるのが苦手で、人前で証しをするのは勘弁して欲しい、という方はおられるでしょう。それは持って生まれた性格ですから、仕方のないことだと思います。けれども、「証し」というのは、何も口でしゃべることだけではありません。存在そのものが「証し」となることがある。立派な姿だけではなくて、失敗も傷も恥も汚れも、それら全部がキリストの恵みの光のもとでは証となる、それがクリスチャンの人生ではないでしょうか。何も格好をつける必要はありません。神様を愛し、神様から愛されている。人を愛し、人から愛されている。罪や汚れがあっても、十字架の恵みによって、私の全ての罪が赦されている。もう一度、やり直すことが出来る。新しく生きることが出来る。そういうあるがままの姿を見て貰えばよいのです。自分では、よく分からないのかもしれません。けれども、私たちの内には、確かに永遠の命が息づいているのです。

 イエス様が救い主であるかどうかは、イエス様が救い主として働いておられるところを見れば一目瞭然です。「私はピアニストです!」と、いちいち口で言わなくても、実際にピアノを弾けば、すぐに分かるのです。働いてくれたならば分かる。キリストが救い主であることの本当に力強い証しは、キリストがそこで働いておられる、ということです。そして、そのキリストの働きは、私たちの内に、私たちを舞台として現れているのです。これまで神様を恐れて、ビクビクしながら逃げ回っていた人が、安心して神様に祈ることが出来るようになりました。明日に対しての不安以上に、神様の導きを信じ、平安に生きることができるようになりました。悲しみの時にも神様の愛に支えられ、悲しみに打ち倒されないで生きることが出来るようになりました。死の時にも、神様に信頼し、希望の中で死ぬことが出来ます。キリストを信じる時に、人を愛する力が与えられ、教会の中には喜ばしい交わりが出来るのです。これは、私たちの働きではなくて、キリストが私たちの内側で働いておられる証しです。キリストがご自分の働きを通して、ご自分が救い主であることを証ししておられるのです。

 私たちの教会が、キリストが生き生きと働いておられる証しとなるように、これからも一人一人がイエス・キリストとしっかりと結び合わされて、与えられた環境の中で、肩肘張らず、自然体で、自分らしく輝いて生きていきたいと思います。

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