日曜朝の礼拝「死から命へ」

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死から命へ

日付
説教
吉田謙 牧師
24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。・・・ 30 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。
ヨハネによる福音書 5章19節-30節

 ここで言う「永遠の命」というのは、ただ長々と続く命のことではありません。そうではなくて、生きていることが本当に素晴らしい、喜びに満ち溢れている、そういうことが生き生きと味わえるような命です。生きても生きても決して嫌にならない、永遠に続いても飽きないような命、本当に充実している命、これが永遠の命なのです。神様は、私たちに、そういう命を与え、永遠に生かして下さいます。

 では、神様は、その永遠の命を私たちにいつ与えて下さるのでしょうか。ここに「わたしの言葉を聞いて、信じる者は与えられる」と言われています。そして最後のところに、「裁かれることなく、死から命へと移っている。」と言われているのです。「死から命に移るであろう」と言うのではなくて、「死から命へと移っている」と言われているのです。つまり、これは今のことを語っています。今という時に、私たちがイエス様の言葉を聞いて神様に立ち返るならば、もう既に死から命へと移っている、と言うのです。

 私たちは、イエス様の御声を聞き、イエス様のお言葉を信じ、イエス・キリストこそ私の神、私の救い主と信じ、救われました。そこで一体何が起きたでしょうか。安心して神様に祈れるようになりました。礼拝に集うことが嬉しくなりました。喜んで何か人のためになることをしたいと思うようになりました。明日に対しての不安以上に、神様の導きを信じ、平安に生きることができるようになりました。その他にも、もっともっと色んなことをあげることが出来るでしょう。その一つ一つが、永遠の命に生きる者とされた、ということのしるしなのです。イエス様の声を聞かなかった頃の自分のことを振り返ってみると、自分のことしか考えることが出来ず、神様の御心など考えたこともありませんでした。将に霊的に死んでいたのです。しかし、そのような私たちに向かって、イエス・キリストは語りかけてくださいました。「起きよ。」「わたしに従うように。」「信じない者にならないで、信じる者になりなさい!」と。私たちは、この御声に聞き、この御声に従うことによって、イエス様の内にある命をいただき、新しくされたのではないかと思います。

 このように私たちは、今、確かに永遠の命に生き始めています。けれども、残念ながら、この歩みは不完全です。神様に愛されている喜びで私たちの人生が満たされているならば、生きることはもっともっと嬉しいことではないかと思います。人を愛する喜びで私たちの人生が貫かれているならば、ここに集まった時に、兄弟姉妹の交わりがもっともっと嬉しいはずでありましょう。私たちの喜びは、まだまだ不完全です。私たちの心の中には、まだ素直に喜べない部分がある。今、私たちの教会の会員数は77名です。客員や求道者の方を加えると、80名を優に超えています。これだけの人数がいると、誰かは大きな問題をかかえて悩んでいます。悲しんでいます。打ちひしがれています。ある方は、涙をこらえながら、ここに集まり、あるいはライブ配信を視聴しています。またある方は、疲れた心と体を引きずりながら、ここに集まっています。そういう意味では、私たちの内側で始まっている永遠の命は、まだまだ不完全なのです。けれども、同じヨハネの教会で読まれたヨハネの黙示録には、こういう御言葉があります。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」ヨハネの黙示録21章3節以下の御言葉です。キリストに結ばれた私たちの目から、その涙がことごとく拭い取られる。その涙の根本的原因であり、最後の敵である死そのものに完全に勝利されたキリストが、もう一度来て下さる。罪や死や悪魔の力に勝利されたキリストが、悲しみや嘆きや労苦を、その源から完全に断ち切って下さる。これは、やがて来る「世の終わりの時」を語った御言葉です。確かに私たちの喜びは途切れ途切れでありましょう。まだまだ不完全です。神様の愛が分かることも、神様を愛し、人を愛する喜びを味わうことも、まだまだ十分ではありません。様々な苦しみや悲しみがやってくる度に、私たちはすぐに崩れ折れてしまう。萎えてしまうのです。けれども、やがて私たちの目からことごとく涙がぬぐい取られる時がやって来ます。やがて私たちは、世の終わりに、完全な命を受け取るために、墓から出て来るのです。

 確かにこの永遠の命の道は、まだまだ発展途上であり、不完全です。悲しみや労苦や闘いが、尚こびり付いています。しかし、この命の道には、そういう完成の時、悲しみや嘆きや労苦が全くない、涙がことごとくぬぐい取られる本当の喜びの時が約束されているのです。これは、私たちにとって、本当に嬉しいことであり、安心なことではないかと思います。

 また30節のところには、こう言われています。「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

 イエス様は、「私はお遣わしになった方の御心を行う」と言われました。「お遣わしになった方」とは、当然父なる神様のことでしょう。では、父なる神様の御心とは何でしょうか。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネによる福音書3章16節の御言葉です。これは何度も味わった御言葉ですね。神様は、ご自分の独り子をこの世に送り、十字架につけてまでも、この世界を救いたいと願われました。それほどまでに神様は、この世を愛されたのです。神様に敵対する世です。神様の愛を踏みにじる世であります。しかし、この「世」を神様は決してお見捨てになりません。今も、なお愛しておられます。これが神様の御心なのです。そしてイエス様は、今日の箇所で、裁きにおいても、この神様の御心を行う、と宣言されたのでした。ここに私たちの希望があります。かつて私たちも滅びの道を歩んでいました。けれども「私のもとに来なさい。私の言葉に聞き、本物の命、永遠の命に生きるように!」とのイエス様の呼びかけに捉えられ、悔い改めて、この命の道に入ることが出来たのです。これは私たちだけに起こることではありません。全ての人に開かれている道です。まだ戸口は閉じられていません。今こそ救いの時、今こそ恵みの時なのです。

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