日曜朝の礼拝「良くなりたいか」

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良くなりたいか

日付
説教
吉田謙 牧師
6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
ヨハネによる福音書 5章1節-9節

イエス様は、ユダヤの祭りの日に、エルサレムに再び上られ、ベトザタという名前の池に行かれました。このベトザタの池には、この頃、ある時間になるとピューと吹き出し、またピタッと止んでしまう間欠泉があったのではないかと言われています。それで、間欠泉が池の中で吹き出した時に、池の水が動くのです。その時に、それを見た人々は、天使がやってきて、水を動かしているのだ、と受けとめました。そして、その時にまっ先に水に入った人の病気が癒されると、いつしか言い伝えられるようになっていったのです。実際に、この池に入り、温泉の効能によって病気が治った人がいたのかもしれません。一番に入った人全員が治ったわけではないでしょう。けれども、こういう噂はすぐに伝わるものです。そういうわけで、噂が噂を呼んで、大勢の病人がそこに集まり、水が動くのをじっと待っていたのでした。

 この池の側に、38年間病気で苦しんでいる人が横たわっていました。この人が、このベトザタの池で、どれほどの悲惨を味わっていたのかは、7節の言葉からも、よく分かります。イエス様の語りかけに答えて、この人はこう言ったのです。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」(7節)

 水が動いた時に一番最初に飛び込んだ一人が癒される、とみんな信じていましたから、病気の人が群がるこの池の周りは、将に凄まじい競争の場所でした。みんな自分のことが一番大事で、他人のことを考える心のゆとりなどありません。水は何度でも動くのですから、38年間も苦しんでいるこの人をみんなが同情し、一度ぐらいはこの人に譲り、この人が入れるようにしてあげればよいのに、と私たちは思います。けれども、そういうあまいことは、ここでは一度も起こらなかったのです。また他の病人たちには手助けをする家族や友人たちがいました。しかし、彼にはそういう家族や友人が一人もいません。ですから、一番辛い時に、彼は誰にも顧みられず、ただ競争の原理にさらされながら、負け続けるしかなかったのです。将に「見捨てられた人」という言葉がピッタリくるような人だと思います。こうして彼の心には、長年の恨みや嘆きが鬱積し、久しぶりに語りかけて下さったイエス様に向かっても、恨みと嘆きの言葉しか出てこなかったのです。こういう彼の悲惨な境遇を考える時に、6節の御言葉は、私たちの心を打つと思います。6節。「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。」

 イエス様は、まずその人の様子をご覧になりながら、その人の負っている現実を深く知ろうとされました。今までの苦しみや悲しみややるせなさ、長い長い苦しみの歴史の全部を知り、理解して下さったのです。勿論、それは全能の神の独り子として知って下さった、ということです。私たちがイエス様からいただく大きな恵みは、ここにあるのではないかと思います。イエス様は、人々から見捨てられてしまったと思えるようなこの人に、目を注いで下さいました。そして、この人の苦しみの歴史の全部を知って下さったのです。その上でイエス様は、本当に驚くべき仕方で癒しの御業をなさいました。願うことが出来ない人。希望がもてない人。信仰があるとは到底言えないような人に向かってイエス様は、「起きあがりなさい。床を担いで歩きなさい!」とお命じになったのです。こうしてイエス様は、自分が救われることなど考えてもみないような人に向かって、突然、救いを差し出して下さいました。この人は、ほんの少し、「起きあがろう!」と思うだけでよかったのです。それだけで彼は良くなり、床を担いで歩きだしたのでした。

 私たちは、イエス様の救いの恵みの中に、こういう側面があることをよく知っているのではないかと思います。十字架の恵みを考える時に、将にそうですね。私たちが罪の赦しを願い、信じたので、イエス様が十字架について下さったわけではありません。私たちが全く願わなかった時に、即ち自分の罪が赦されるという可能性さえ知らなかった時に、あるいは自分に永遠の命が与えられることすら知らなかった時に、もうイエス様は十字架について下さったのです。そして、この救いを全てご自分で用意した上で、突然、「起きあがりなさい!新しく生きるように!」と私たちに差し出して下さったのでした。ただ私たちは、ほんの少し足に力を入れるだけでいい。救われたいと願い、信じるだけでいいのです。それだけで私たちは、イエス様が準備して下さったこの救いの全てにあずかることが出来る。神様の愛を深く味わい、自分の罪が全て赦されている平安を味わい、永遠の命に生きる希望の中を歩むことが出来るのです。

 あるいは、クリスチャンであっても完璧に生きることは出来ません。皆、罪を犯します。しかしクリスチャンは罪を犯しても、その罪を悔いることが出来る。悔い改めることが出来るのです。これが健やかなクリスチャンの生き方でありましょう。悔い改めるというのは、新しく生きるということです。自分の今までの罪を認め、これからはもう一度新しく生きてみようと決心するのです。これが悔い改めです。ところが、私たちの生活から、この悔い改めるという習慣さえ無くなってしまうことがあります。自分は結構いい人間ではないかとうぬぼれ、悔い改めを忘れることがあります。逆に、徹底的に自分の罪を思い知らされて、もうこんな自分では駄目ではないかと諦めてしまい、悔い改めることを忘れることがある。しかしイエス様は、私たちのことをよくご覧になり、全てを知っていて下さいます。私たちの悲しみも苦しみも涙も、全部知り尽くした上で、「起きあがりなさい。新しい命に生きるように。良くなりたいのではなかったか?!」と呼びかけて下さるのです。何度失敗しても大丈夫なのです。イエス様の十字架の贖いによって、私たちは何度でもやり直すことが出来ます。「諦めてはいけない。あなたもやり直せる。起き上がりなさい。悔い改めて、新しく生きるように!」「良くなりたいのではなかったか?!」このイエス様の御声を、どんな時にも聞き取りたいと思います。

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