日曜朝の礼拝「あなたの息子は生きる」

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あなたの息子は生きる

日付
説教
吉田謙 牧師
47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。48 イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。49 役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。50 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。
ヨハネによる福音書 4章43節-54節

 ある時、カファルナウムに住んでいる王の役人の愛する息子が重い病気にかかりました。しかし彼の力も立場も、息子の死の病には何の力にもなりませんでした。この時、彼は、初めて自分の無力さを、嫌というほど思い知らされたのではないかと思います。そういう絶望的な状況の中で彼は、ガリラヤのカナという町にイエス様が来ておられる噂を聞きました。その時に彼は、もう居ても立ってもいられなくなり、なりふり構わず、ただ息子の命を救いたいという一心で、イエス様のもとへと出かけて行ったのです。そして、地位や名誉をかなぐり捨てて、イエス様に向かって、「カファルナウムまで来て息子を癒して下さい!」と必死で頼んだ、と言うのです。ところが、この願いに対してイエス様は、「あなたは、私の言葉に真剣に聞こうとしているのか、それとも奇跡を求めるだけなのか?!」と問われたのでした。そして更にイエス様は、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と、この父親に対して、なお厳しい選択を迫られたのです。

 この時、イエス様は、カファルナウムに一緒に下って行き、そこでその息子を癒した上で「私を信じるか」と問われたのではありません。「今、あなたは私の言葉を信じて帰りなさい。あなたの息子は生きる。この私の言葉を信じることが出来るか?!」これが、この時のイエス様の問いかけでした。今はまだ何にも起こっていないのです。まだ何にも見えていません。ただ「イエス様の口から出た言葉は神の言葉なのだ!」と信じ、希望をもって帰るのか、それとも信じることが出来ず、絶望して帰るのか、イエス様は、この時、この選択を迫られたのでした。つまりイエス様は、しるしを見て信じるのではなくて、言葉を信じる信仰を、彼に求められたのです。では、この時、彼はどうしたでしょうか。50節の終わりのところに、「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」と言われています。まだ彼には何の変化も見えていません。けれども彼は、その段階で既に信じて帰って行った、と言うのです。こうして彼は、しるしや不思議な業を見ないで、ただイエス様のお言葉を信じる信仰へと、イエス様ご自身によって、追い込まれるようにして導かれていったのでした。

 今日の物語で何と言っても心打たれるのは、ただイエス様の言葉を信じて帰ってきたこの父親に、「しるし」が与えられた、ということです。帰り道で彼は、息子の病気が治ったことを知らされました。その治った時間を聞くと、それはちょうどイエス様が「あなたの息子は生きる」と言われた時刻であった、と言うのです。どうしてイエス様は、この同じ時間に癒して下さったのでしょうか。家に帰っている途中で癒されたとか、家に帰った時に癒されたというのではなくて、ちょうど「あなたの息子は生きる」と言われた時に、この死にかけていた息子が癒され、生きたのです。これは明確な「しるし」が与えられた、ということでしょう。もう見間違えることのないようなはっきりとした「しるし」、明確な「しるし」であります。この「しるし」を見た時に彼は、本当の意味で信じることが出来たのでした。

 イエス様は、この人の信仰の弱さをちゃんとご存じでした。そして、彼を憐れみ、「しるし」を与えて下さったのです。信じる時には、彼は追いつめられて、もうイエス様の言葉を信じる他はなかったのです。けれども、信じた後に彼は、本当にこのお方は命を与えてくださるお方、命の主であることを悟ることが出来たのでした。

 私たちが歩む信仰の道は、こういう道ではないかと思います。ただイエス様のお言葉を信じる他はないのです。奇跡やしるしを求めることは出来ません。信仰の出発は、皆そうなのです。けれども、私たちがイエス様を信じ、信仰の道を踏み出していくならば、このお方が確かに命の主であることを、主は様々な仕方で示して下さいます。私たちは、そういう信仰の体験を積み重ねていく中で、少しずつ成長し、やがては本当の意味で信じることが出来るようにされていくのではないかと思います。

 「あなたの息子は生きる」と言われて、しるしを見て、この父親は信じました。しかし、この信仰は、そこでとどまらなかったと私は思います。きっと、今日の物語に登場した父親も、やがては年老いて死んでいったことでしょう。この時生き返った息子も、やがては治らない病気にかかって死んでいったと思います。けれども彼らは、このようにしてご自分を現されたイエス様にしっかりと結ばれ、本物の命に生かされて、そしてこの命が永遠に続くことを確信し、喜んでこの世の生涯を閉じていったのではないか、と思います。

 ただお言葉を信じる信仰から私たちは踏み出す他はありません。皆そうやって踏み出したのだと思います。けれども、その道筋で私たちは、このイエス・キリストというお方の確かさを少しずつ味わっていくのです。そして、やがて私たちは、しるしがなくても、このお方に信頼を置くことが出来るように、成長させられていくのだと思います。

 今、私たちは、どのあたりを歩んでいるでしょうか。信仰の歩みはそれぞれです。それでいいのです。それぞれの信仰の段階に応じて、神様が相応しい恵みを与えて下さいます。神様から与えられる恵みの数々を見ながら、しかし恵みの数々に私たちの心を奪われるのではなくて、またそれにしがみつくのでもなくて、本当にこのお方自身を信じたいと思います。このお方がなさることは全てよい、最善の時に、最善の方法で、最善のことをしてくださる、この信仰にまで私たちは成長させられていくのです。このことを信じつつ、これからもこの信仰を目指して歩み続けたいと思います。

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