日曜朝の礼拝「伝道の喜び」

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伝道の喜び

日付
説教
吉田謙 牧師
28 女は、水がめをそこに置いて町に行き、人々に言った「さあ、見に来てください。私のしたことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」・・・39 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。40 そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。・・・42 彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
ヨハネによる福音書 4章27節-42節

 今、私たちは、イエス様が一人のサマリア人の女性と出会ってくださった、という物語を読み進めています。先週、私たちは、彼女が今語り合っている相手(イエス様)が、神様から遣わされた救い主であることを悟ったところまでを学びました。今日の箇所で彼女は、イエス様に出会った喜びに満ち溢れています。28節のところに、彼女は水瓶をそこに置いたまま、その喜びを伝えるために町に行った、と言われています。もともと彼女は、井戸水を汲みにやって来たのです。しかし、そういうことはもう後回しにして、このイエス様のことを一刻も早く伝えたいと思ったのです。それほど彼女は、喜びに満ち溢れていたのでした。この彼女の喜びに溢れた態度は、人々にイエス様のことを伝えた彼女の言葉の中にも、はっきりと表れています。彼女はこう言って伝道したのです。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。これは驚くべき言葉ではないかと思います。彼女は、五人も夫を変えて、今では夫ではない男性と男女の関係にある人です。この恥ずべき自分の人生には、誰にも触れられたくないと思い、町の人たちの目を避けて、誰も人がやって来ない真っ昼間の暑い最中に水汲みにやって来るような人でした。彼女は、自分の人生を恥じていたのです。ところが、彼女はこの隠しておきたい人生からすっかり解放されて、「さぁ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます!」と町中にふれ回った、と言うのです。これは、以前の彼女の姿を知っていた町の人々にとって、本当に驚くべき姿ではなかったか、と思います。

 町の人たちは、この彼女の驚くべき変化と証言を通して、イエス様を信じるようになったのです。そして信じた人々は、40節にあるように、イエス様に、「どうぞこの場所にとどまって下さい」と願いました。こうしてイエス様は、二日間、この地に滞在し、神様の言葉を語られたのです。その結果、この二日間で、更に多くの人々が、イエス様の言葉を聞いて信じるようになったのでした。

 40節のところで、「自分たちのところにとどまるようにと頼んだ」と言われている、この「とどまる」と翻訳されている言葉は、ヨハネによる福音書においては、大変に重要な言葉です。ヨハネによる福音書を理解する鍵は、この「とどまる」という言葉を理解できるかどうかにかかっている、とさえ言われます。それほどまでに、この言葉は重要な言葉なのです。この「とどまる」という言葉は、葡萄の木に「繋がる」という時の「繋がる」という言葉で翻訳されることもあります。要するに、この言葉は、イエス様との結びつきを言い表す言葉なのです。イエス様が私たちのところに滞在して下さる、とどまって下さる、そのようにしてしっかりと結びついて下さる、ということです。サマリアの町の人々に信仰が芽生え始めたのは、確かに、このサマリアの女性の驚くべき変化を目の当たりにし、彼女の証言を聞いたことによるのだと思います。それが一つの切っ掛けとなり、人々はイエス様のことを信じるようになりました。しかし、それはあくまでも信仰の取っ掛かりにしか過ぎません。人々が、「私たちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かった」と語ることが出来たのは、将にこういうイエス様との深い結びつきがあったからでありましょう。

 さて、今日の御言葉の一番最後のところに、サマリアの町の人々のこういう言葉が記されています。

42節後半。「この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

 これが4章のサマリア伝道物語の結びの言葉です。イエス様がユダヤ人の枠を超えて、ユダヤ人が蔑んでいたサマリア人にも、あえて伝道なさったのは、イエス様がユダヤ人だけに留まらず、世の救い主であることを現すためでした。そしてサマリアの人々は、そのことをよく理解することが出来たのです。

 まず最初に、サマリアの町の人々は、イエス様が一人の女性の救い主であることを知りました。今まで自分の生活を恥じ、背中をかがめるようにして生きてきた女性が、堂々と胸を張り、「私のしたことを全部言い当てた人がいますから、どうか見に来てください」と言えるようになったのです。こうして彼らは、イエス様が、まずこの女性の救い主であることを知りました。しかし、その次に彼らは、イエス様と一緒に二日間を過ごし、このお方は彼女だけではなくて、私の救い主でもある。私の魂の渇きも癒してくださるお方なのだ、と悟ったのです。ところが彼らは、「このお方はあなたの救い主であると同時に、私たちの救い主でもある!」とは言いませんでした。そうではなくて、彼らは、「このお方は世の救い主である」と言ったのです。あなたの魂の渇きを癒したお方は、私たちの魂の渇きも癒すお方であり、またそれに留まらず、世の全ての人の魂の渇きをも癒すお方なのだ、と彼らは自らの信仰を言い表すことが出来たのでした。要するに、自分たちの救いだけに留まらず、世の救いという隣人愛へと人々の目が向けられていったのです。こうしてイエス様のサマリア伝道は完結したのでした。本来、伝道は、こういう仕方で実を結ぶものでしょう。そして、そのためには、やはりイエス様が二日間滞在されたという、この大きな恵みの時間がどうしても必要だったのです。

 伝道の力は、いったいどこから湧いてくるのでしょうか。それは一人一人が御言葉に聞き、祈り、このイエス様に出会うところから生まれてくるのだと思います。イエス様と一緒にとどまり、イエス様の御言葉に耳を傾けながら、「このお方こそ世の救い主である」と、一人一人が確信をもって言い表すことが出来なければ、伝道の力は到底湧いてきません。教会がいくら伝道の計画を綿密に立てたとしても、それだけでは駄目なのです。この日の寂しさ、この日の悲しみ、この日の疲れ、そういう日々の寂しさや悲しみや疲れを私たちは毎日の生活の中で味わっていると思います。もし私たちがそういう日々の寂しさや悲しみや疲れを、お酒やテレビや様々な趣味によってだけで癒しているならば、もう私たちには伝道する力は湧いてきません。それでは伝道する必要も感じませんし、力が出てこないのです。私たちの日々の悲しみと日々の寂しさと日々の疲れが、その日の夕方に読む御言葉によって、あるいはその日に祈る祈りを通して癒され、平安が与えられる、私たちが伝道するためには、やはりそういう経験がどうしても必要なのです。

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