日曜朝の礼拝「霊と真理による礼拝」

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霊と真理による礼拝

日付
説教
吉田謙 牧師
23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
ヨハネによる福音書 4章19節-26節

 今、学んでいる4章には、イエス様がサマリア人の女性に語りかけられ、ついにはこの女性を救いに導かれた、という物語が記されています。今日の19節のところから、話題は「生きた水」から「礼拝」の問題へと移っていきます。そして、ついにイエス様は、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と語られたのでした。では、この「霊と真理とをもって礼拝する」とは、いったいどういうことでしょうか。イエス様はまず霊ということについて「神は霊である」と言われた後に、「あなたがたは霊と真理とをもって礼拝しなければならない」と教えられました。聖書において「霊」という言葉は、その人の生命力、働きの原理、エネルギーを表しています。つまり、「神様が霊である」ということの一番の中心点は、神様は活発に働かれるお方なのだ、ということです。霊である神様は、私たちの心の内側に働きかけ、そこに信仰を造り出し、神様を礼拝するように招いて下さいます。旧約聖書の時代から神様はそういうお方でした。しかし、イエス様が救い主としてお出でになった時から、神様は霊であるお方として、非常に活発に活動なさるようになったのです。それが聖霊のお働きです。私たちの心の目を開き、神様の愛を悟らせ、真実の礼拝を捧げさせて下さいます。そうやって神様が霊なるお方として、私たちの心に積極的に働きかけて下さいますから、私たちの側も、聖霊によって新しく造りかえられ、新しい心をもって礼拝を捧げることが出来るのです。これが、ここでイエス様が教えられたことの中心です。ですから、霊と真理をもって礼拝するというのは、誠心誠意、真心を込めて、自分の力を振り絞って、熱心に礼拝するということとは、まるっきり正反対のことなのです。自分の力ではなくて、聖霊に導かれ、感謝をもって捧げる礼拝であります。

 では、真理をもって礼拝するとは、どういうことでしょうか。ヨハネによる福音書でこの言葉が使われる時に、ヨハネが一番意識していたのは、「影ではなくて実体である」という意味だと思います。この会堂の入り口の扉は、磨りガラスになっています。葡萄の木の絵が刻まれた磨りガラスです。ですから、扉が閉まった状態で、扉の向こう側に誰かが立っていると、ぼんやりとその影が見えるだけです。真理というのは、そういう影のことではなくて、実体のことを言うのです。扉を開けると、今まで磨りガラスの向こう側にぼんやりとしてしか見えなかった人のことが、今度ははっきりと見えるようになる。その実体が分かる。これがここでいう真理という意味です。真理をもって礼拝するというのは、旧約時代のように磨りガラスごしに、ぼんやりとした仕方で神様を礼拝するのではなくて、イエス・キリストを通して神様のことがはっきりと分かる仕方で礼拝する、ということです。

 このサマリア人の女性は、「あなたが教えて下さった霊と真理とをもっての礼拝、即ち本当に神様のことが分かっての礼拝は、メシアが来られ、全部のことを教えて下さった時に、きっと実現することでしょう。」と答えました。するとイエス様はこう言われたのです。26節。「イエスは言われた。『それは、あなたと話をしているこのわたしである。』」これがサマリアの女性に対するイエス様の最後の言葉でした。この最後の言葉で、イエス様を通して与えられる神様の愛の深さは、彼女に十分に伝わったのではないかと思います。イエス様は、この女性の崩れた生活の全てをご存じでした。そのイエス様が神様から遣わされた救い主として、彼女に近づいて下さったのです。最初の内彼女は、イエス様のことをただのユダヤ人だと思い、馬鹿にしていました。けれども、イエス様の方は、忍耐強く、そして優しく語りかけて下さったのです。イエス様は、彼女の生活の全てを知り尽くされた上で、「こんなに汚れていては話にならない!」と馬鹿にされたのではなくて、「あなたの魂は渇いているので、このように生活が崩れてしまったのではないか。あなたには命の水が必要なのではないか?!」と優しく、命の水を差し出して下さったのです。このお方がメシア、救い主でした。これは、イエス様がとても優しく、良い人だった、ということにとどまりません。このイエス様の態度は、即ち神様の態度を現していたのです。神様から遣わされたお方として、イエス様は彼女と会話をなさいました。つまりイエス様を通して神様はこの女性と出会って下さったのです。

 23節の終わりのところに、「父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」と言われていました。この「求める」という言葉は、「捜し求める」という意味の言葉です。神様は、霊と真理によって礼拝する人を捜し求めておられます。「あなたはどこにいるのか?!」と、一人一人の魂を、キリストのお姿を通して訪ね求めて下さるのです。この女性は、「それは、あなたと話をしているこのわたしである!」というイエス様のお言葉を聞いて、全てを理解したのではないかと思います。これまで、ちぐはぐな会話でモヤモヤしていたことが、一挙にストーンと心に落ちたのでした。他でもない神様が親身になって、「あなたの魂は渇いているので、あなたには命の水が必要なのではないか?!」と、自分のことを捜し求めておられたのです。そのことを彼女は、この時、ようやく身に染みて味わうことが出来たのでした。私たちも、彼女と同じように、ある時、イエス・キリストを通して、神様の本当のお姿が示され、この礼拝の場へと導かれたのではないかと思います。私たちが罪を犯し、こんな惨めな姿では、もう恥ずかしくて、恐ろしくて、神様の前に出ることなど出来ない、と身を潜めていた時にも、神様はイエス・キリストを通して私たちの罪を覆いながら、「あなたはいったいどこにいるのか?!」と呼びかけて下さいました。「辛くて、悲しくて、空しくて、藻掻いているあなたは、いったいどこにいるのか。あなたは自分自身の弱さや汚れや罪に嫌気がさしているのかもしれない。もう取り返しがつかないと、人生を諦めかけているのかもしれない。でも大丈夫!あなたの罪は赦されている。あなたの罪は、御子イエス・キリストの十字架の贖いによって全て償われた。だから、あなたはもう逃げ回らなくてもよい。安心して私のもとに帰ってくるように!」神様は、霊において、このように忍耐強く、繰り返し、私たちを訪ね求めて下さったのです。そのお陰で、今の私たちがあるのではないでしょうか。

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