日曜朝の礼拝「神の言葉を語れる方」

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神の言葉を語れる方

日付
説教
吉田謙 牧師
31 上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。32 この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。33 その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。34 神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。35 御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。36 御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその人にとどまる。
ヨハネによる福音書 3章31節-36節

 イエス様を信じるかどうかで、人は二つに分かれていきます。どっちつかずの中道の道はありません。「御子を信じる人は永遠の命を得ている。」これは、死んだ後に、やがて永遠の命が与えられる、ということではありません。そうではなくて、今既に、永遠の命を得ているのです。この永遠の命というのは、ヨハネが、繰り返し好んで用いる言葉で、ただ単に、ずっと続く命というだけの意味ではありません。ヨハネが言う「永遠の命」というのは、本当に生きていることの素晴らしさが現れる命、この世の命とは全く質の違う命、本物の命という意味です。そして、その命の秘密は、神様の愛にあります。

 私たちが、心底、生きていることの素晴らしさを感じる時とは、いったいどういう時でしょうか。美味しい物を食べる時や素晴らしい景色を眺める時に、あるいは音楽の音色に癒される時に、私たちは「本当に生きていてよかった!」と感じるのかもしれません。しかし、何よりも生きていることの素晴らしさを感じるのは、やはり愛を味わう時ではないかと思います。家族や友人と心がふれ合う時に、私たちは生きていることの素晴らしさを痛感します。そして、その愛の中でも一番の愛、どんな時にも変わらない最高の愛が、イエス・キリストによって現された神様の愛なのです。この世のお互い同士の愛は、残年ながら移り変わることがあります。たとえ親しい仲であっても、家族であっても、私の全てを理解し、全てを受け入れてくれているわけではありません。時々、寂しい思いをすることがある。逆に、あまりにも受け入れられてしまうと、本当に大丈夫なのだろうかと心配になることもあります。本当の私の姿を知った時に、この人たちはどう思うのだろうか、と心配になるのです。この世の愛は、私たちの全てを知り、それを受け入れているわけではありません。買いかぶりがあり、気がつかないことがあり、またその愛が冷めてしまうこともある。しかしイエス・キリストが十字架に示された神様の愛は、そういう愛とは違います。私たちのことを全部理解し、私たちの罪や汚(けが)れを全部知り、私たちの一番醜い部分を知りながらも、それでも、なお「愛する」と言って下さる。私たちの罪のために十字架に掛かって死ななければならない。それほどまでに、私たちには大きな大きな罪があるのです。それにもかかわらず、神様は私たちを、罪や汚(けが)れや弱さをもったまんまで抱きしめて下さる。受けとめて下さる。愛し抜いて下さるのです。この大きな大きな愛で愛され、この大きな愛に突き動かされて、私たちもイエス様と神様が大好きになっていく。また私たちの内側に、この神様の愛が満ち溢れて、兄弟姉妹をも愛することが出来るようになっていくのです。こういう愛を味わう時に、私たちは生きていることの素晴らしさを、最も生き生きと味わうことが出来るのではないかと思います。永遠の命というのは、今この神様の愛を知り、死の時にもこの神様の愛に包まれながら死んでいく、死んだ後も、この神様の愛を味わいながら、ずっと神様と共に生きていくのです。これが永遠の命です。御子を信じる時に、私たちは今日という日に、この永遠の命に生き始めることが出来ます。これは本当に嬉しいことではないかと思います。

 しかし、よくよく考えてみると、この十字架の愛を受けとるというのは、そう簡単なことではありません。今日の箇所の32節のところにも、「この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない」と言われています。私たちの思いを遙かに越えた神様の愛は、人間の理屈では到底理解できない、私たち人間の努力や精進によっては、もうどうすることも出来ないのです。では、私たちは、もう神様の怒りのもとに留(とど)まるしか術がないのでしょうか。決してそうではありません。

 34節のところには、「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が”霊”を限りなくお与えになるからである」と言われています。イエス・キリストの十字架のお言葉は、聖霊と共に、神の言葉として、私たちに語りかけられるのです。その言葉を直接、私たちに伝えたのは、友人だったのかもしれません。礼拝の中で牧師が語る説教の言葉だったのかもしれません。あるいは、ある状況の中で、以前、学んだ聖書の言葉が、不意に甦ってきたのかもしれない。いずれにしても、人間は、語る者も聞く者も、所詮、地に属する者でしかありませんから、自分の力や能力で神様の言葉が分かるはずはないのです。本来分かるはずのないことが分かり、受け入れられ、信じることが出来る。これは、将に、聖霊なる神様が私たちの心に働いて、納得させて下さった、ということでしょう。

 まだ言葉が分からない幼子であっても、愛情を込めてぎゅっと抱きしめられたならば嬉しいです。愛されていることが分かる。イエス・キリストは、大きく大きく手を広げて、「神様はこんなにもあなたのことを愛しているよ」と十字架の上で死んで下さいました。私たちのことをぎゅっと抱きしめて下さったのです。この十字架の愛は、そこに聖霊が働くならば、どんな人であっても、理屈抜きに分かるのではないでしょうか。

 ある時、イエス様は、このように教えられました。「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。天の父は求める者に聖霊を与えて下さる。」ルカによる福音書11章13節の御言葉です。聖霊を求める者には必ず与えられる、これがイエス様の約束でした。つまりイエス様は、私たちが永遠の命を受け取ることが出来るように、聖霊を用意していて下さったのです。ですから、私たちは、イエス様が語られる上よりの言葉、命の言葉、神の言葉を理解し、信じ、受け入れることができるように、そして永遠の命に生きることが出来るように、「主よ、どうか聖霊を私たちに豊かに注いで下さい」と、これからも祈り続けていきたいと思います。

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