日曜朝の礼拝「新しく生まれる」

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新しく生まれる

日付
説教
吉田謙 牧師
5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
ヨハネによる福音書 3章1節-15節

今日の箇所には、ニコデモという人が登場します。彼はファリサイ派に属する人で、しかも議員であった、と言われています。ファリサイ派に属するということは、何百とある律法をキチンと守って日々の生活をしている熱心なユダヤ教徒であった、ということです。彼らは、食事の時の作法から、安息日にしてはならないことまで、沢山の事細かな律法をキチンと守ることによって救われる、と信じていた人たちです。また彼は議員であった、とも言われています。当時ユダヤは、ローマ帝国の支配下にありました。しかし、軍事と税金のこと以外は、殆どユダヤ人による自治が認められていたようです。ニコデモは、そのユダヤ人の自治組織である議会の議員であった、と言うのです。ですから彼には、社会的地位もあり、人望もあり、教養もあった、と考えてよいでしょう。そういうニコデモが、ある夜、イエス様のもとにやって来たのです。

イエス様は、訪ねて来たニコデモの心を見抜かれながら、こう言われました。「あなたは、自分は正しい人間であり、根本的に変わらなければならないとは少しも思っていない。もし自分に少し足りないところがあるのなら、それが何かを教えてもらいたい!きっとあなたは、そんな思いで私の所にやって来たのだろう。しかし、そんなことでは、あなたは救われない。あなたが正しいと思っていることなど、永遠の命を得るためには何の役にも立たないのだ。もしあなたが本当に永遠の命を得たいと思うのなら、あなたは生まれ変わるほどに、全く新しくならなければならない!」と。

 ニコデモは、このイエス様の教えに戸惑いました。そして彼はこのように問い返した、と言うのです。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

  彼は、イエス様の言葉に反論するために、屁理屈をこねているわけではありません。これは今日(こんにち)もなお多くの人々の内にある心の叫びではないかと私は思います。おそらく彼自身、老齢に達していたのではないでしょうか。彼は、幼い時から律法を教えられ、ユダヤの伝統の中で、良きユダヤ人であるために、あらゆる努力をしながら、これまで必死で生きてきたのです。しかし、人が真面目に生きようとすればするほど、正しく生きようとすればするほど、人間の醜さや自らの罪深さを思い知らされることになります。そして、そのようにして生きてきた人が、老齢に近づいていく時に、「新しく生まれる」などという言葉は、もう縁遠いものになっていくのです。「新しく生まれる?」「今までのことを全部うち捨てて、一からやり直す?」「そんなこと、もう一度、母の胎に入って生まれ直すようなことでも起こらない限り、無理ではないか!」これが老齢に達した一人の人の悲しい叫びでした。

 しかし、それに対して、イエス様はこのように答えられたのです。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。」

 「人は変われない」と言うニコデモに対して、イエス様は「いや人は変われるし、変わらなければならない。変わらなければ神の国に入ることなど決して出来ない」と、はっきりと宣言されたのです。このニコデモとイエス様の「変われない!」「いや、変われる!」という主張の違いは、いったいどこから来るのでしょうか。それは、ニコデモが「変わる」ことを、自分の力、自分の努力によることとして受けとめているのに対して、イエス様は、神の力によって変わるのだ、と告げている点にあります。

 私たちは、自分で何かを変えようとしても、なかなか変えることが出来ないことをよーく知っています。長年の習慣は、日々の生活の隅々にまで浸透していて、心の中にも心の習慣というものがあり、人に注意されたぐらいでは何も変わらないのです。そういう意味では、ニコデモが語っていることは、決してデタラメではありません。しかし、もしそれが私たちの全てだとするならば、私たちは誰一人救われないことになってしまいます。それに対してイエス様は、そうではないのだ、と言われるのです。人は変われるし、変わらなければならない。何故ならば、人を変えてくださるのは神様だからです。

 今日の箇所で「新しく生まれる」の「新しく」と翻訳されている言葉は、「上から」と翻訳することも出来る言葉です。ヨハネによる福音書は、一つの言葉に二つの意味を持たせて使うことがある、と今までにも何度かお話ししたと思います。この箇所もそういう箇所です。新しく生まれるというのは、上から生まれる。上からの働き、神様の働き、聖霊の働きによって人は新しく生まれるのだ、と言うのです。

 5節の「水と霊とによって生まれる」という言葉は、洗礼のことを思い浮かべることの出来る言葉になっています。信仰が与えられ、洗礼を受けようという思いは、神様によってしか起こされません。今年は、新型コロナウィルスの影響で、教会としては、計画していたことが殆ど出来ませんでした。私自身も、このような経験は初めてですから、本当にあたふたしてしまい、御言葉の奉仕を確保することだけで精一杯でした。しかし、そんな中で、本当に嬉しいことに、多くの加入者や受洗者が与えられました。これは決して私たちの力や業ではありません。将に神様の御業、聖霊のお働きでありましょう。本当に感謝なことですね。

 新しい年も、おそらく当面は様々な制限のもとで歩まなければならないと思います。私たち人間の力や業にはやはり限界があるのです。もし、それに頼ろうとするならば、もう私たちは絶望する他ないでしょう。けれども、どんな時でも神様は、御子を十字架に付けるほどに私たちのことを愛し抜いて下さいます。キリストを信じる群れである教会には、私たちの力や業が現れるのではなくて、聖霊が豊かに働かれ、神様の力が現れるのです。新しい年も、そのことを信じ、主を見上げつつ希望をもって歩んでいきたいと思います。

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