日曜朝の礼拝「人の心を知るお方」

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人の心を知るお方

日付
説教
吉田謙 牧師
23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。24 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。
ヨハネによる福音書 2章23節-25節

 イエス様は、エルサレムの過越の祭の時に、しるしを見て信じた人たちの信仰をご覧になりました。そして、彼らの信仰は、ただ奇跡を見て驚いているだけであって、まだ本物の信仰には至っていない、これでは信じることが出来ない、と判断されたのです。これはイエス様を信じ始めた方にとって、まるで自分を突き放すような厳しい言葉に聞こえるのかもしれません。確かに、ここにはそういう厳しい響きもあるでしょう。けれども、これはただ突き放すだけの言葉ではありません。このヨハネによる福音書を、この後ずっと読み進めていくと、これが恵みの御言葉であることが次第に分かってくると思います。

 今日の御言葉は、ヨハネによる福音書の文脈からすると、3章のニコデモ物語の導入部分になっています。このニコデモという人は、ユダヤの国会議員で、ユダヤの中では有力な人物であったようです。このニコデモという人が夜になって、こっそりとイエス様のもとにやって来たのです。そしてイエス様と様々な会話を交わすことになります。簡潔に言うと、これが3章のニコデモ物語の中身なのです。その3章の2節のところに、このニコデモの語った言葉が、このように伝えられています。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」このニコデモという人こそ、しるしを見て信じた人の代表者でした。ニコデモは、「神様が一緒にいるのでなければ、こんなしるしは行えません」と言いながら、イエス様のもとにやって来たのです。ところがイエス様は、このニコデモの信仰を、それこそ信用されませんでした。このニコデモに向かってイエス様は「あなたは新しく生まれ変わらなければ神の国を見ることは出来ない!」と言われたのです。つまり、しるしを見たから信じたと言うだけでは駄目なのであって、「あなたは新しく生まれ変わらなければならない!」と言われたのでした。そして、その後もこの会話は続き、ついに、あの有名な御言葉が語られるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネによる福音書3章16節の御言葉です。これが、イエス様がニコデモに伝えたかったことの中心でした。しるしを見て、奇跡を見て、こんな凄い人なら信じてみたいと思った、そんなニコデモに向かって、「それでは駄目なのだ!あなたの心は新しくされなければならない!私を通して神様の驚くべき愛が現されているから、あなたは、このことに心を向けるように!」とイエス様は迫られたのです。しるしを見て信じるのは、まだ入り口に立っているだけなのです。そこから入り、心が新しくされ、独り子を十字架に犠牲にするほどまでに神様が私たちのことを愛し抜いておられることに、心の目が開かれなければならない。そうでなければ、たとえ国会議員であっても、どんなに知識人で、「私は分かりました。信じます!」と言ったとしても、イエス様は「まだあなたは分かっていない!」と言われ、信用されなかったのです。

 しかし、この「信用されない」というのは、信仰者として失格である、ということではありません。イエス様は、確かにニコデモを信用されませんでした。けれども、信用されなかったからこそ、イエス様は、このニコデモに対して、懇切丁寧に神様の愛を解き明かして下さったのです。もしこの時、イエス様がニコデモのことを信用していたならば、いったいどうなっていたでしょうか。「あなたは信じたのだね。ああ、よかった。よかった!」もうそれでお終いです。そこからは何も進展しません。実際に、その信仰がしっかりしたものであり、どんなことがあっても崩れない信仰であったなら、それでもよかったのかもしれません。けれども、そんな人間は一人もいないのです。そういうことからするならば、イエス様に信用していただくというのは、必ずしも嬉しいことではない、ということが分かってくると思います。「もうあなたは、私の手を借りなくても、一人で十分にやっていけますね」と言われたならば、もうイエス様からの助けは私たちに届いてきません。イエス様に信用していただけるというのは、本当はそういうことなのです。

 しかし、イエス様はニコデモを信用されず、ニコデモと熱心に対話を続けられました。そして、ついに、あの十字架の深い愛を示して下さったのです。ヨハネによる福音書によると、このニコデモは、やがて十字架の上に死なれたイエス様のお体を、アリマタヤのヨセフという人と一緒に取り下ろし、引き取る人として描かれています。イエス様が十字架に架かられた時に、弟子たちはみんなイエス様を見捨てて逃げてしまったのです。けれども、この3章のところで、夜こっそりとやって来ることしか出来なかったニコデモが、やがてイエス様が十字架に架けられた時には、大胆にも現れて、イエス様のお体を引き取ることが出来たのでした。イエス様は、このニコデモのような人間を、信用されませんでした。けれども、そういうニコデモであったからこそ、イエス様は忍耐強く、丁寧に会話をなさり、教え続けられたのです。そして、随分と長い時間はかかりましたけれども、最後にはこのイエス様の十字架のお体を任せられるような人間にまで成長していったのでした。

 時々、礼拝や祈祷会、求道者会が終わった後で、「先生、今日のメッセージは、私のために語って下さったのですね」と喜んで、応答してくださる方がいらっしゃいます。勿論、私は、信徒一人一人にメッセージが届くようにと祈りながら準備をしています。しかし、礼拝の説教にしても、祈祷会や求道者会の学びにしても、私がその日になって聖書の箇所を自由に選んで語っているわけではありません。計画通りに、聖書の順番に従って語っているだけです。もし、その人にとって、時宜にかなった聖書の御言葉が語られていたのなら、それは主が一人一人の心の中にある課題を、ちゃんとご存知であり、その人にとって、今必要な語りかけを、主ご自身が用意して下さった、ということでしょう。そうやってイエス様は、私たちの心の奥底までご存じのお方として、ある時には優しく、またある時には厳しく、その時々に必要な慰めや励ましや勧めを私たちに届けて下さいます。そして、あのニコデモを導かれたように、私たちをも最後まで責任をもって導いて下さるのです。これは本当に安心なことではないでしょうか。

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